PUBLISHED 1987


邦文堂だよりは今年で、18年目を迎えます。
継続することの大切さのなかで、大きな節目を迎えようとしています。
昭和62年6月1日(西暦1987)第1号を発行しました。
創刊号は、B4版一枚の手書きのおたよりでした。

市川大門の有形、無形の文化財、道端の道祖神、代々伝わる家、古木。
市川大門のすばらしさを情報発進しよう!!
次世代の若い世代に市川大門の文化を伝承させよう。

お客様とコミニュケーションを取ろう!!
お客様のお役に立ちたい。
お客様に喜んでいただきたい。
お客様の事をもっと知りたい。
そんな関わり合いを積極的に展開できたら…
こんな想いで、邦文堂だよりはインターネットにリンクしました。




邦文堂だより

 平成20年度11月号 第3回地域貢献表彰 甲府商工会議所

 平成20年度10月号 市川大門町並みウォッチングの脚

 平成20年度9月号 鑑真展平成の大修理記念展 〜静岡県立美術館7/12〜8/31〜

 平成20年度8月号 鰍沢法人会 NPO 富士川・夢・未来 〜町並みウォッチングを市川で〜

 平成20年度7月号 「黄金の国 ジパング」 谷口一夫館長

 平成20年度6月号 中小企業大学・中小企業実習生

 平成20年度5月号 親父が教えてくれたこと

 平成20年度4月号 明日のライオンズを考える

平成20年度3月号 「国際観光の新たなビジョン」 山梨県立大学国際観光特別講座

 平成20年度2月号 お詫び リコーリサイクル用紙のお詫びと対応について

 平成19年度12月号 つみきって楽しい「楽つみ木」

 平成19年11月号 よみがえるか、甲府中心街

 平成19年10月号 まぼろしの平塩寺

 平成19年9月号 トヨタの未来者 「i-unit」

 平成19年8月号 ハックルベリー・フィンの冒険

 平成19年7月号 やっぱり本物はすごい 

 平成19年5月号 ひさびさのたまに行くなら、こんな店♪

 平成19年4月号 躍動するカワセミの写真 廣瀬博

 平成19年3月号 文化財は人間形成に活用

 平成19年2月号 文化庁の江面先生の講演

 平成19年1月号 2007年新年挨拶

 平成18年9月号

 平成18年7月号 清里の観光カリスマ 舩木 上次

  平成18年6月号 清里フィールドバレエ

 平成18年2月号  パソコンちょっと一言/山梨に夜間中学を

 
平成17年12月号 市川大門町町並ウォッチングパート・2

 
平成17年10月号 市川大門町中央部町並みウォッチングパート・1

 
平成17年6月号 「日本人の忘れ物」 

 平成17年5月号 ついに市川大門散歩マップパート2完成!

 平成17年3月号 ライオンズ広報誌に「青洲文庫」渡辺青洲の里を紹介 

 平成17年1月号 梨大生の卒論に市川大門町の水路  

 平成16年9月号 浜名湖花博

 平成16年8月号 おかげさまで創業100周年 

 平成16年7月号 小さな町の社会教育委員活動

 平成16年5月号 自主活動団体にアンケートを (市川大門町社会福祉協議会)  

 平成16年4月号 子育て支援 峡南地区地域教育推進会議  

 平成15年10月号 花園院の開山は慈恵大僧正  

 平成15年8月号 徳川幕府の朱印状 薬王寺  

 平成15年6月号 板屋さんは、富士川舟運の問屋 

 平成15年5月号 上・塩屋 黒沢河岸 望月清上 

 平成15年4月号 池川家は三代に渡り「目薬製造」   

 平成15年2月号 寛政年間のお蔵のお寺・福寿院 

 平成14年12月号 創業は安政の魚屋 「扇屋さん」 



 第3回地域貢献表彰 甲府商工会議所

甲府商工会議所創立129周年記念表彰式で「市川マップの会」が第3回地域貢献表彰を受賞しました。甲府商工会議所会頭 上原勇七氏より「地域の伝統文化の紹介と伝承活動」に対し表彰されました。平成4年度から15年間、地域に密着し、継続した地域紹介・調査活動と市川大門の有形無形の文化財や神社仏閣・代々言い伝えられている家屋敷などに関する保存運動と伝承活動が評価されました。
表彰式の席上、「長き渡りコツコツと活動してきた事が認められ、栄えある賞を受賞した事に感激しています。メンバーとともに喜びを分かち合いたい。」と、挨拶しました。また、活動のなかで特に思い出深いことは小学6年生の子どもたちとまち並みウッッチングを開催した時、父兄や祖父母など三世代で市川のまち並みを散策した事。それに国の登録有形文化財「福金楼」の保存運動を展開した時、文化庁の調査審議官 江面嗣人氏をお招きし、基調講演をしていただいた事、パネルディスカッションも同時に開催し、市川大門の町民のみならず、県下の他町村から360名の参加があり、「文化財
化財の大切さ」「文化財の伝承について」など解り易く話され、市川に新鮮な風が吹いた事などが思い出として残っています。
比叡山 延暦寺の天台宗座主・山田恵締お上人のお話に、「一隅を照らす」との言葉があります。小さなロウソクの光りでも、念ずればやがては辺りを照らし続けるとあります。
「市川マップの会」も、地域の疲弊が益々拍車を掛けるときではありますが、この受賞を機会に地域の歴史を伝承することを機軸に活動してゆきたいと思います。
                           代表取締役  一瀬 茂


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 市川大門町並みウォチングの脚本

9月20日(土)午後2時から増穂町の「峡南の歴史と文化を学ぶ会」の依頼を受け市川マップの会で市川代官所界隈を案内しました。
 94名の参加でしたので2コースに分かれ
Aグループ「ゆったりコース」で町屋探訪が中心。Bグループグループは「はりきりコース」で平塩岡の歴史探訪です。
「峡南の歴史と文化を学ぶ会」は、会長が元増穂町長の田中隼人さんで、共催は富士川ファンクラブ、後援は増穂町教育委員会・商工会・峡南青年会議所・社会教育の会峡南支部。事務局が六斎という増穂町の勉強会です。
今年は市川代官所を中心としたことを学んでいます。30代から80代までの勉強熱心な方々で市川の方も多く参加していることに驚かされました。
今回の解説はAコース村松正人さんで、B
コース一瀬八重子で案内しました。また、丹沢勝さんが現地に代官所の模型を展示し、かつてあった場所を確認する方式をとり、道祖神の詳しい解説もしました。また、市川三郷町役場から2名の方々が協力してくださり、
大所帯の移動でしたが、無事終了でき、参加者の方々から感謝の言葉を頂けました。
これからは、いろいろな方々から依頼された時に対応できるように、案内人の充実を図ることが大切だろうと痛感しました。脚本を元に勉強会を重ね解説者を育成することが求められています。
脚本の一部を紹介します。〔平塩寺跡地〕このように夢窓国師が少年時代、このお寺で修
行なさっています。このような由緒あるお寺でありながら、何時、如何なる理由で廃寺になったのか確かでありません。しかし三昧堂、薬師堂は、廃寺になってもあったようです。薬師堂は、天正十年(一五八二)、甲府太田町一蓮寺へ売られたと記録にあります。その頃の里謡に「妻が欲しくは一条へござれ、一じょやくしはつま薬師」と、古跡の廃するのを歎き諷したそうです。

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 鑑真展平成の大修理記念展
  〜静岡県立美術館7/12〜8/31〜

8月9日(土)に静岡県立美術館の鑑真展を見に行ってきました。お昼に清水についたので清水駅の東にある清水港市場おさかなセンター「河岸の市」に寄りのっけ家で食事をしました。たっぷりなウニとイクラ丼とまぐろぜいたく丼(1500円)を食べました。清水港だけあって新鮮で贅沢な盛りで、醤油も甘口・漬けたれ・特選の3種類とこだわっていました。
静岡県立美術館は、少し高台にあり県立大学や図書館と一緒の広々とした緑に囲まれた文京地区にありました。ロダンの彫刻が有名で「地獄の門」をはじめする32点の彫刻が展示されていました。
建物は天井も高く、広い会場にゆったりと展示され、車椅子で回っていても支障なく見ることができました。音声ガイドのサービスもあり、詳しく知りたい方も満足し、お年寄りにもよく分かりました。
鑑真展の最初は四天王広目天、・多目天、梵天、帝釈天が静かに出迎えてくれます。まずその大きさと迫力に圧倒されます。
次は唐招提寺の伽藍図、香水壷と続き曼荼羅、鑑真和上が日本に向け5回の遭難に会い、失明され、それらを乗り越え来日された強い意志が読み取れる絵巻物と続きます。中ほどに「鑑真和上像」が置かれていました。自然体の座禅した姿は麻布を漆を用いて貼り合わせて骨格を形作る脱活乾漆造で、両手先のみ木彫で造られていて、柔らかな印象を受けます。さらに進むと受戒会が行われる空間が再現され鋳銅三具足や前机、脇机や多くの仏具が並べられていました。
 さらに、この展覧会は唐招提寺の平成大修理が行われている間に全国を回っている事、その大修理は、神戸大震災で柱にゆがみが出たことが発見されたことから始まったこと等、分かりやすくビデオで解説されていました。一つ一つじっくりと学ぶことのできた展覧会でした。

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 鰍沢法人会 NPO 富士川・夢・未来  
          〜町並みウォッチングを市川で〜
 7月19日(土)に身延山大学見延公開講座で身延山総門付近を散策しました。古地図を駆使した案内書を片手に、歴史をたどる楽しい町並みウォッチングでした。
 市川マップの会でも歴史的資料を用意した町並みウォッチングをしたので紹介します
鰍沢法人会が立ち上げた「NPO 富士川・夢・未来」のスタートに先駆け、市川大門町並みウォッチングをと企画がされ、市川マップの会に依頼が来て3月9日実施しました。
市川大門の地域資源・お宝発見を探すという趣旨でしたので、できるだけ歴史が目に見えて分かるようにと、現地に代官所の復元模型を置いて、製作者の立川勝さんに解説をしてもらい参加者により深い理解を得ることができました。
 参加は長澤会長・亀井鰍沢税務署長など総勢37名とにぎやかなものとなりました。
市川本町駅をスタートし、@保泉の鬼石・A道祖神・B宝寿院・C花園院・D甲斐源氏発祥の遺跡・E市川代官所跡・F市川教会・G青洲文庫跡・H丹頂堂千本格子・I福寿院 の順に市川の歴史や今尚地域の方々に大切にされているところを散策しました市川マップの会のメンバーの村松正人さん・一瀬八重子さん・立川勝さんの解説を聞きながら市川の歴史に触れることができました。
 日頃見慣れたまちの佇まいも、解説者の説明で、スポットが当り一層存在感のある風景に見えました。潟}ルアイ村松徹郎社長も「あらためて、市川大門を散策すると、今までにない良さを感じ取れた、先人たちの足跡が偲ばれる。」と話され、初参加の皆さんも市川大門の歴史と文化の豊かさに驚きの声を上げていました。石油高騰のため不安材料の多い時期ではありますが、地域活性化の妙案を探し当てる努力をしていただき、峡南地域の交流と活性化の一枝になればと思いました。昼食付きの反省会もにぎやかにまた、充実したものとなりました。


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 『黄金の国・ジパング』谷口一夫館長

 5月28日(水)市川三郷町町民会館において平成20年度市川三郷町国際交流協会総会及び基調講演会が開催されました。基調講演では、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館館長、谷口一夫館長から『黄金の国・ジパング』と題して講演して戴きました。「富士川流域王国」シンポジュームを開催なさった事や富士山の世界文化遺産登録運動といっしょに『黄金の国・ジパング』の世界遺産登録運動の提案や、大久保長安ら甲州人との関わりも深い佐渡金山遺跡・マルコポーロによって西洋に伝えられた中尊寺金色堂の平泉・陸奥金山遺跡・世界遺産登録の石見金山遺跡などの紹介など、体系的に
『黄金の国・ジパング』の案内をされました。また、江戸時代徳川家康に命を受け、日本三大急流の一つ富士川を整備した角倉了以の富士川舟運のことなど、詳しく話されました。富士川舟運の上げ荷には、上げ塩・海産物・農産物下げ荷には、下げ米・穀物・農産物など、近世の日本の流通システムの拠点・甲斐の国の物資輸送の大動脈として発展したそうです。
 また、谷口館長は県考古学協会の会長、県史編纂委員会・原始部長、県文化財保護審議委員・史跡部会長、山梨県博物館協会副会長など要職に就かれ、数々の個人プロジェクトをもち、山梨県立博物館「ハブ博物館」構想、富士川流域王国「きらり輝き倶楽部」首謀、日中国際共同研究「3世紀卑弥呼の時代に至る中国大陸・朝鮮半島・日本列島の関係」、NIPRO佐野實社長の「山梨県活性化プロジェクト(養豚)」推進、など多方面での活動をされ、地域づくりの提案など身をもって実践をなされています。市川三郷国際交流協会としても、地域の歴史も踏まえた上での交流を機軸に活動してゆきたいと思います。地域の疲弊が益々拍車を掛けるとき
有意義な基調講演会であったと思います。

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 中小企業大学・企業診断実習生
 中小企業大学校の企業診断士養成課程の学生が5月12日〜23日に我社で実習されました。中小企業診断士の茂木次男先生・支援研修課 主任位下公二氏 6名の実習生が企業の継続的な成長・発展を支援するためにと、我社を取り巻く外部環境・内部資源など総合的に分析し、経営戦略課題を明確にし、解決するための具体的な計画書創りをしてくれました。
初日の社長ヒヤリングで会社の理念であるお客様への「お役立ち」「情報発信」「挑戦」など今までの邦文堂のボードポリシ−・103周年を迎えた社歴など報告し、営業との同行や業務への取材をしました。5日後、研修生から課題解決のため、具体的な対策案を策定し、経営戦略の実践に向けた中長期経営計画の立案を中心に我社の企業診断をしてくれました。*リーダーの小嶺雄之氏は全社経営戦略の提言*サブリーダーの貝瀬敦彦氏は現状分析・取り巻く外部環境について*荒木健太郎氏は組織戦略について*笠原康嗣氏は営業戦略について*田村健二氏はIT戦略について、それぞれ提言していただきました。
 特に、経済産業省の商業統計、日本事務機器流通団体の機器流通実態調査資料、2008年度中小企業白書、パソコン教室関連の矢野経済研究所・教育産業白書など統計表の示唆や、当社のカリキュラムの受講者の動向を表にしての現状の指摘なども、参考になりました。夢中で、社員と共に頑張っているつもりなのですが、指摘をいただいた営業関連項目には、目のうろこが落ちる想いでした。私は五代目ですが、父からは、「お客様を大切に」「メーカー様を大切に」「お陰さまでの心を」と教わりました。この経営診断書を参考に、益々社業に邁進する所存です。中小企業大学のスタッフの皆様ありがとうございました。

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 親父が教えてくれたこと

 私の親しい同級生の豊川秀雄氏が(財)伝統的工芸品産業振興協会が実施している「伝統的工芸品産業功労者褒賞」を(市川大門手漉和紙部門)で受賞に輝きました。
今回受賞の伝統的工芸品産業功労者褒賞とは、伝統的工芸品の従事者を対象に、長年にわたって伝統的技術の維持向上、後継者の育成等広く産地振興に貢献されたことへの表彰です。豊川さんは、山梨県知事が認定した「山梨県郷土伝統工芸品(全12品目)」の一つ1,000年以上の歴史を持つ「市川大門手漉和紙」の唯一の作り手です。和紙の伝統的な原料である「楮(こうぞ)」「三椏(みつまた)」の処理及び大判紙(136cm×70cm)の「流し漉き」に関して卓越した技法を有しています。今回の受賞は地域資源としての保存・伝承並びに新製品の開発により販路開拓にも取り組んで、小・中学校の学習の場などとして、広く見学を受け入れ、手漉き体験の指導も行っています。また、「山梨県郷土伝統工芸品共同展示会」などのイベントで実演・体験指導を行っていることも含まれています。
豊川氏が漉く書道用画仙紙は、その秀逸な風合いと品質から県内外の書家に用いられており、書道文化の振興に貢献しています。毎年、山梨県知事が県政功績者に渡す表彰状や甲府商工会会議所の永年勤続従業員表彰、県立高校や宝石美術専門学校、産業技術短期大学校の卒業証書も同氏が漉いたものを使用しています。豊川さんは「40年前おやじに教わって、ここまでこれたことがよかったんだと思います。」としみじみと話されました。

経歴 平成12年 山梨県から卓越した技能者「やまなしの名工」に指定。平成16年 旧市川大門町(市町村合併により、現在は市川三郷町)の無形文化財「市川大門手漉和紙の技法の保持者」に指定。

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 「明日のライオンズを考える」
  『ライオン』誌日本語版創刊50周年記念論文に一瀬社長が受賞しました。
  一部を紹介させて戴きます。

(前略)アメリカで大活躍のマリナーズのイチロー選手は今季も7年連続の200本安打と大きな実績を重ねています。イチロー選手の語録に、「成績が出ているから『これでいいんだ。』と自分で評価をしてしまったら今の自分はない。野球は失敗のスポーツ、どれだけ頑張っても先はない。」と語っています。俊足と変幻自在にバットコントロールをし、ホームランではなく「確実に当てる事」を追求した職人芸、新しい野球スタイルを本場のアメリカで創り、野球をよく知らない女性も含め多くのファンを生み出しました。また、人には見えないバックヤードでは、弛まぬ努力はもとより、野球道具にも工夫を重ね、金具がチタンで片足280gの素足感覚のシューズをメーカーに開発させるなど創意工夫をしている。とありました。
このことはライオンズクラブ運営の上でも非常に参考になることだと思います。
@現状否定のなかで変革を常に求めてゆく姿。・・ライオンズに置き換えるとセレモニー的な事業からの脱皮、お酒を片手にするアクティビィティからの脱皮などの変革が重要と考えられます。
A本場のアメリカで、今までにない新しい野球スタイル構築。・・大切な献血事業やLCIFの活動もありますが、日本ならではの事業の展開・地域に根ざした歴史・文化の保護と伝承などライオンズクラブとしての新しい活動の機軸を再構築する時だと考えます。
B女性も含め多くの新しいファンを生み出す。・・この事はライオンズクラブのPR活動も含め、さらなる情報発信が必要かと思います。ライオンとしての誇り・ステイタスなど考える中で独自のアクティビィティは実践してはいますが、そのPR不足の面があります。ライオンズってこんな貢献もしていたの、が現状です。変化する社会環境への対応や、地域のなかで求められる役割など、他のボランティア団体やNPOとの交流を開催し、コミュニケーションを計ることが必要不可欠ではないかと思います。「地域をより良くしよう。」という志を同じくする者同士のネットワークづくり。など、この三視点は閉塞感のあるライオンズクラブ存在全体に新しい風を吹き興すと思います。原点に戻り第一歩を踏み出す時だと考えます。このことがやがては大きな風となり潮となり、新しいタイプのライオンズクラブ運営が地に足のついた、違和感のない、身の丈のアクティビティとなり、「明日のライオンズクラブ」への理解と協力にも結びつく事だと考えます。メンバー一堂が立ち止まらず、勇気を持って変革にあたり、創意工夫する時だと思います。
ライオンズクラブの明日を考える時、地域に密着したクラブ活動に機軸を持つことが今、大切な事と考えます。市川大門三珠ライオンズクラブも、偉大な先人たちのDNAを身につけ、この地域に貢献することを誇りとして活動してゆきたいと考えています。ライオンズクラブの活動が変革の時を迎える今、地域を愛し、人を愛して地域と共に、ライオンズの旗の下に集いたいと思います。(後略)

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「国際観光の新たなビジョン」
 山梨県立大学国際観光特別講座

 2008年1月27日に山梨県立大学国際観光特別講座が「国際観光の新たなビジョン」と題して開催されました。(社)日本ツーリズム産業団体連合会JTB代表取締役会長 舩山龍二氏の基調講演がありました。まず、「観光とは、国の光を観る事である」から始まりました。その昔、代表的な観光はお伊勢参りや岩倉具視の明治4年の欧米視察団やロンドン博覧会などあるが、その観光の原点は、学ぶ・体験する・交流することであり、相互理解などがあげられる。また、現代日本の旅行の特色は、家族旅行・修学旅行・社員旅行・母娘旅行・3世代旅行などで、観光業の市場は個人化や低価格化など多様化してきている。小泉首相の時にIT・観光立国に特化することを目指し、祝日を増やしたことを揚げられました。
観光立憲推進基本法が2003年12月法案成立し、2010年までに、@訪日外国人数を1000万人にA海外渡航者数を2000万人B国内に於ける旅行消費額を30兆円C国内観光旅行一人当たり宿泊数を年間4泊D国際会議開催件数 を5割増にする。以上5項目が推進計画の目標として掲げられたとの話でした。
観光地活性化の推進はアイデンティティの確立をし、地域観光資源を磨くことであり、交流人口の増加や経済の活性化を図ることを主眼とすることにある。さらに景観・環境・歴史・文化・オリジナリテイなどを一流にし、地域住民主役型の観光事業にして行き、観光カリスマの人材発掘やイベントを集約、無意味な事業を終息し、新たに中国・韓国などとの国際交流を積極的に展開する戦略が必要と話されました。
第二部では、パネルディスカッションが催され、デモレーターには、城西国際大学観光学部教授溝尾良隆氏、パネリストには、韓国観光公社東京支社長呉龍洙氏、富士屋ホテル取締役副社長小池雅彦氏、富士河口湖町前観光課長渡邊武博氏、総合司会はフィルムコミッション副会長・県立大学准教授前澤哲爾氏で行われました。地域が疲弊している中、観光立県・山梨のブランドづくり・静岡飛行場の活用・リニア・中部自動車横断道路など整備されてゆくインフラにつても話されました。特に呉龍洙氏は「韓国との交流の大切さ、『チャングム宮廷女官』『冬のソナタ』など文化交流が韓流観光を促し、更なる日韓の交流が増進されれば相互の国にとっても良い事だ。」と、話されました。富士屋ホテル小池副社長は「海外からの留学生たちとのコミュニケーションを計るべきだ。彼らが帰国して、将来その国の官僚などのリーダーとなるのでネットワークを創ってゆくことが大切だ。」と話されました。
富士山に頼らず、山梨のブランド創りなど興味深い講演会でした。

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お 詫 び
リコーリサイクル用紙のお詫びと対応について

 平素は格別のお引き立てにあずかり、厚く御礼申し上げます。
先般、1月17日(木)新聞報道・TV報道等で取り上げられました。「再生紙の古紙含有率偽装」に関しまして、弊社で契約を戴き納入させていただいております、リコー リサイクル用紙も古紙の配合率が表示と異なるものである事が判明致しました2001年度に施行されたグリーン購入法に基づき、調達するコピー用紙は古紙配合率が100%の再生紙と定めて、環境保全の精神が大きくクローズアップされ、地球環境保全のなかでも最も重要な案件と弊社でもグリーン購入の運動に協賛し、その販売に力を注いできました。しかし、残念ではありますが偽りの仕様でありました。

@日本製紙グループ
    (リコー リフォレスト100製造先・販売中止)
A王子製紙    
    (リコー マイリサイクル100製造先・販売中止)
B大王製紙
    (リコー マイリサイクル100W製造先・販売中止)

上記の会社が配合率の基準を満たしていない。(日本経済新聞 1月22日)とのことでした。
このことは、単に製紙メーカー・潟潟Rーの経営責任のみならず、弊社としましても、多大なご迷惑をお掛けした事に、深く、お詫び申し上げます。二度とこのような事態にならぬよう、心がける所存でございます。しかし、現状では主力6社の製紙会社を含め、潟潟Rー・潟Rクヨ・IT関連のメーカー・商社など、相次いで古紙配合の再生紙製品の販売を停止しています。従来の再生紙は入手不可能となりました。現時点では、日本製紙グループ・王子製紙・大王製紙・および潟潟Rーからの正式な情報を収集している状況でございます。インターネット・ホームページからも各社のお詫びと苦悩する様子が伺い知れます。
 この状況は、全国的な異常な事態であるため、コピー用紙の安定供給の面に於いて代替品の品切れも予想されます。
潟潟Rーから(日本経済新聞 1月24日)の対応で、「緊急避難的な対応」として、RICOH TPペーパー 中性紙を代替の用紙としてご用意させて戴きます。と通知がありました。このコピー用紙であれば、潟潟Rー指定のコピー用紙でありますので、運用上のトラブルは避けれると考えております。供給に支障がないように勤めてゆく所存です。なにとぞ、ご理解のほどよろしくお願い致します。
今後の対応につきましては、ご指導いただく中で、潟潟Rーと一緒に対応して行く所存です。
なにとぞ、ご理解を戴きますようよろしくお願い致します。
重ねまして、多大なご迷惑をお掛けしました事に対し、深くお詫び申し上げます。

             梶@ 邦  文  堂   代表取締役社長 一瀬 茂

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つみ木って楽しい「楽つみ木」
十一月七日(水)に富士屋ホテルで山梨総合研究所の十周年式典が行われました。
 そのメッセ会場で木楽舎(荻野雅之)さんが中央に赤いジュータンをひき二万個のつみ木を置いた楽つみ木広場をやっていました。二十人ほどのこどもと大人が塔を熱心に積んでいました。
 楽つみ木は木楽舎のオリジナルなもので、ヒノキの間伐材を使って木目をいかした香りが素敵なものです。三種類あり、長方形の板状(三×十二p)と台形(三.六×三×三p)と立方形(三p)と工夫されています。素材を生かしたつみ木は丁寧な仕上げがされていますので、大人の感性を持って緻密でかつ芸術的に積みたてることもでき、特に、荻野さんの手にかかると、こんな形にどうしたらこうなるのと驚くようなとても素敵なオブジェとなります。
 また、楽つみ木は間伐材を使うので日本の森林の再生を図り、地球温暖化にも貢献できます。また、広い空間で無数といえる数のつみ木があることや、時間をたっぷりとって積むので、大作に挑戦でき、崩れたら何回もやり直すため、集中力が養えます。仲間でやれば連帯感も生まれ情操教育にも役立ちます。
 参加者は、思い思いのグループになり、慎重に積んでいます。かわいい女の子と優しそうなおかあさんとが四段までの円柱の塔を注意深くのつみ木を組み合わせています。どちらかといえばお母さんのほうがノリノリです。思わず童心に返るのかも入れません。崩れかけてしまってもすぐに修復して、もくもくと大作に挑んでいる方がいて、思わず「うーん」とうならせる見事な物もあります。
 たくさん作品ができるとそれらをつみ木の帯でつなぎます。一体感ができてまた雰囲気がかわります。
 全員で遠くから眺め、満足感に浸りきると、最後におもむろに荻野さんが、全員にそれぞれの力作のまえに正座するように呼びかけます。「つみ木さんありがとう」「あなたの今までの中で一番のやさしさで包んで崩してください。」と掛け声をかけますと、会場はサラサラというやさしい音が響き、元の姿にもどりました。
 何時までも耳元でサラサラとさわやかな音が響いているようでした。

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よみがえるか甲府中心街
十月十三日(土)に甲府の桜座において山梨県立大学の学生が中心で構成している「よつびし総研」(田中裕代表)で「ガチンコジュウムU 甲府まちづくりフォーラム2007」が行われました。
 午前の部は、法政大学名誉教授の田村明先生の基調講演で始まりました。先生は、日本全国どこでも同じにならない「まちづくり」を提唱した方で、市民がその気になり、それぞれの地域にあった個性のあることを目指し、歴史をたどり・自然・景観を大切したしくみ「市民の政府」を自分たちのために作らなければならないと話されました。
 その後、轄封ヌの笹原司朗前代表の事例紹介で、秀吉が造った楽市楽座を基点とした長浜の商店街の賑わいが郊外型の大型店舗に取られたのを、ヨーロッパ型のガラス文化を事業化して成功した話でした。「固定観念をはずそう」や西田天香の思想の「無一物無所有無尽蔵・一銭も持たない者こそ最も大きな考え方が開ける」を信念としたそうです。パンフレットはこだわりのものをつくり、宣伝用にばら撒かず「来て下さったらお渡しする」方法を取ったそうです。
 犬山市の石田芳弘前市長事例紹介では、賢い住民を作るため小中教育に特化し、少人数学級にしたこと。国宝のお城を中心とした城下町再生を目指したこと。全市博物館構想を持ち、横糸を山川草木、縦糸は歴史だと話されました。町の潜在能力を見つけること。歩いてめぐるまちづくり。イメージが大切でポイントを決めてやらなくてはなどと力説しました。「分かりやすくいえば、野球のバッター順は、まず四番を決めてからでしょ。」が印象的でした
 最後は甲州市の三森哲也観光課主幹で、イギリスが発祥のフットパスという散策ガイドツアーの紹介で、ワイナリーめぐりや朝市、大正期に作られた旧中央線のトンネルを石室や線路を歩道に活用した近代化遺産の保存活動などの紹介がありました。
 午後の部は田村先生がコーディネイターとなり、学生のパネリストと事例紹介の三人と甲府の宮島雅展市長がコメンテーターとして加わり「よみがえれ!甲府中心街」をテーマにガチンコジウムが行われました。
 コメンテーターの方々が、拠点作り・市民の方向性を一つに・教会を中心に・映画館・城下町など出されました。宮島市長が無料の駐車場がないため郊外型の大型店舗にお客が取られてしまうという意見に、笹原さんや石田さんはかえって車を拒む方向を取って、歩くことの楽しみやほっとする懐かしい町を強調し違いを際立たせることが大切だと話されました。
 学生からは今回のイベントで甲府市役所の駐車場を無料提供してくれなかったことを訴えたり、ネットカフェをやり、女学生を対象としたのに小学生が集まり客単価が減少し商売の難しさを学んだこと。この会に商店街の方の参加がないことへの反省。行政・市民・商店主・学生などが一同に集い話せる場作りが急務などの意見が出ました。
 会場からは、甲府は昔憧れの町だとか、県外から来たが甲府の人は温かく迎えてくれたこととか、学生の店で独自の商品開発をしたらどうかなどの意見が出ました。
 坂本裕樹実行委員長が終わりの言葉の中で、大勢の方たちが真剣に参加してくれたことへの感謝を述べた際、感極まり言葉に詰まる姿がさわやかでした。
 市川マップの会は平成五年八月十四日から、町並みウォッチィングをしていますが、甲府市はその以前から「北山野道」という散歩マップを作っていました。その冊子に町家・民家・歴史的遺物・今回学生があるもの探しで発見したものなどを加えて、町を歩き楽しむ城下町を打ち出して欲しいものです。




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まぼろしの平塩寺

市川大門の平塩の丘に行基が開基したと伝わる平塩寺がありました。天台百坊といわれた巨寺でしたが、今はなく、また、いつ廃寺になったのか定かでなく、まぼろしの平塩寺ともいわれています。この平塩寺は夢窓国師が弘安六年(一二八三)父に従って空阿上人について出家を志した所であり、大月の花井寺の大般若経四〇五巻の末尾に筆師幸明平塩在八代郡市川とあり、若草の法善寺のものは五五〇巻の奥義に畢阿遮梨平塩寺降舜とあります。また、花園院に四軸の平塩寺過去帳があります。
 長い間、市川に住む人々に愛され郷土の誇りとされていましたが、残念なことに現在は、多くの人がその存在を知らない状態になっています。私なりに平塩寺のことを調べ、気軽に読める物語風にし、地元の皆さんに少しでも平塩寺を知っていただければと、細々ですが調べ始めました。幸いなことに、中倉茂先生が『武家政権鎮護の寺があったー北条時頼が造った平塩寺ー』(一九九七年出版)を書かれていますので、いろいろご指導を頂いております。
 今回は、「平塩寺が何時まで存在したか?」の諸説を紹介します。
☆一五八二年説。浅間社古文書の巻物明治二六年に書かれたものに「天正壬年三月武田家御没落の刻郷礼におよび、敵将織田信長良臣川尻肥後守信胤のためらん平塩山諸堂並びに末社に至るまで悉く波布せり」とある。
☆一六八六年説。貞亨三年の附文書に平塩寺の諸堂が『武家政権鎮護の寺があった』に書かれている。
☆一八〇六〜一八一四年説。甲斐国志巻之八十六に仏寺部第十四 八代郡西郡の一. 平塩山薬師院 同村 同宗同末本尊薬師 を平塩寺の一部が残っているとする。しかし、甲斐国志巻之五十の古跡部第十三と絵地図で、平塩寺廃跡としているので一八〇六〜一八一四年にはもうすでになかったとするとも言える。
 平塩寺が滅びた説に、市川では「織田信長に焼かれた。」の説が根強くあります。私が教えを戴いてる先生方は織田信長は韮崎から甲斐に入ってきており、徳川家康が先に市川に来ているのでこの説はないと言われています。
 焼かれた説の一つに一九九〇年の市川大門文化審議委員の記事、毎月の広報の「平塩山平塩寺 赤池忠則」があります。
抜粋ー一体は古い巻物であり、今の庄の木稲荷の岡にある浅間社のものである。
「そもそも当社開闢は天平年中平塩山平塩寺と号し行基菩薩の開基にて、則ち境内に富士浅間社建立がある。然し変化難避天正壬年三月武田家没落の時、敵将織田信長家臣川尻肥後守信胤の為平塩山諸堂並びに末寺に至るまで悉く焼失せり」 
この原本はどこにあるかと調べましたら、市川三郷町市川大門町民会館二階の古文書資料室のロッカー下段引き戸にありました。五〇センチぐらいのかなり傷んでいる巻物でした。赤池先生の文と少し違いがありますので抜粋します。「そもそも当社開闢は天平年中平塩山平塩寺と号し(中略)武田家御没落の刻郷礼におよび、敵将織田信長良臣川尻肥後守信胤のためらん平塩山諸堂並びに末社に至るまで悉く波布せり・(中略)・明治二十六巳四月十八日 扶桑教会 今社長 元行真」
 明治に書かれた富士講の巻物の書き出しでした。庄の木神社の西側に富士講の石碑が並んでおり、その奥に浅間社の建物がありその中に保存されたのだと思われます。この書き物では「焼失」ではなく「破布」でした。波布を調べたのですが正確には分かりませんでした。ご教授いただければありがたいのですが平塩寺のことも情報があればお願いします。
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トヨタの未来車「i−unit」

八月六日に愛知県のトヨタ自動車轄H場見学に行って来ました。
 山梨県立大学の黒羽雅子教授の経営学の授業に関連したものでした。事前勉強会でトヨタ生産方式の特徴であるムダの徹底的排除の思想と造り方の合理性、不良品を作らないために異常が発生したら機械を停止する「自働化」や各工程で必要なものを必要な時に必要な量だけを流れるように停滞なく生産・運搬する「ジャスト・イン・タイム」を学びました。
 「かんばん方式」や「ジャスト・イン・タイム」はよく耳にしましたが、「自働化」は、今回の勉強会で知りました。自働化とは機械に人間の知恵を与える。という意味の命名だそうです。ラインの所定の距離内で機械設備の異常や、品質の異常、作業遅れなど何らかの異常が生じたら、作業者や班長がラインを止めて原因を取り除き平常の作業に戻すやり方です。技術力のある班長の果たす役割は重要です。どんな感じで作業されるのか興味がわいてきました。
 集合場所はトヨタ会館でした。会館内の展示はハイブリット車を詳しく展示してあり、目を引いたのは未来の乗り物『i-unit』でした。椅子が乗り物というか、ロボットの内部に入るという感覚のものです。ホールでインストラクターの女性が『i-unit』に乗って運転しました。右の手でドアノブのようなものを軽く回すだけで操縦し、三六〇度の回転も、ほとんど同位置でできます。椅子に座った状態の低速モードでは四キロ程度の早さで、F1カーのように変形した高速モードでは四五キロほど出るそうです。その変形もアッという間の出来事でした。動力は電気で、充電に一時間かかり、一時間動くことができるそうです。まだまだ実用には遠いものですが、これは見ものでした。トヨタ・パートナーロボットのトランペット演奏も有名でこの次はぜひ見たいと思います。
 目的の工場見学は、ここからバスに乗って元町工場まで行きました。ガイドさんの話では、車はプレスから組み立てまでは二十時間かかり、部品は三万個あるそうです。組み立てと溶接を見ました。溶接は総て機械化され、機械ロボットが恐竜のように首を動かし、スピーディに動いて火花を散らして溶接し終わるとじっと静止しているさまはSF映画のロボットのようでした。組み立ては、ドアを取り外したいろいろな車種がライン上に整然と並んでいました。担当者がその機種にあわせた部品をライン脇にワゴンを置き滞りなく取り付けていきます。「自働化」の様子は作業者がラインに添って頭の上に紐が張られているのを引くと異常を知らせる黄色のアンドンが点灯します。班長が来て異常を解決し、アンドンを消灯します。異常を解決できないときには、赤のアンドンを点灯し、ラインを止めて異常を解決します。班長は、制服を着てヘルメットを付けていました。
 各車の屋根にIDナビをつけて管理され、エンジンは車の心臓部にふさわしい姿で五五〇点の部品で組み立てられ、検査は千項目あるなどいろいろな驚きがありました。
                                              
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ハックルベリー・フィンの冒険

アメリカのマスカティーン市の使節団が、八月二日に市川三郷町に来訪します。
一年交替で使節団が派遣されています。
 マスカティーン市は、ミシシッピ川の畔にあり市で、「トム・ソーヤの冒険」の舞台になっています。皆さんは、「ハックル・ベリーの冒険」を知っていますか?「トム・ソーヤの冒険」の続編で、ハックル・ベリーの少年とジムという逃亡中の奴隷との冒険漂流記です。
 ハックル・ベリーは、粗野で、乱暴とされていますが、ジムとの逃亡生活でいろいろな経験をして、正義感や思いやりや分別ができてきました。ジムは親切で忍耐強く、用心深く、生きるためのたくさんな知恵を持っていますが、ある時、あふれる激情に襲われて話す言葉「娘が4歳の時ショーコー熱にかかって口も耳も聞けなかったのに気がつかず、いらいらして子どもを張り飛ばしてしまった。おらはワーッと泣き出してしちまい。あの子を両腕でぎゅーっと抱きしめて・・・」との回想は、私の心を振るわせました
 トム・ソーヤも後になって登場します。奴隷解放の前のアメリカの社会通念や自然の雄大さなどを多く学べます。夏休みになりましたので、お子さんと一緒に読み合うのにはとてもよい本です。
 ハックル・ベリー少年は、ミスワトソンおばさんに預けられ、学校へ行き、本を読めるようにななり、行儀のしつけなどされました。トム・ソーヤと一緒に、泥棒たちがかくしたお金を見つけて、6千ドルものお金を手にしますが、サッチャー判事に預かってもらい、毎日1ドルを渡されました。ある時、ハックルは、クモがローソクに飛び込みこげてちりちりになったのを見て、何か悪いことが起こると予感します。果たして呑んだくれてはハックルを叩くお父さんが、6千ドルのうわさを聞きつけ現れたのです。ハックルを強引に川向こうのアジロに連れ帰ります。ハックルは、ある時決心して、自分が誰かに殺されたように見せかけて逃れます。ジョンソン島で、ミスワトソンおばさんの奴隷のジムと偶然会います。ジムは売り飛ばされそうになって逃げたことをハックルにうちわあけます。そこで二人で筏に乗って昼は隠れて、夜だけ筏でミシシッピ川を下ります。ケアロは、奴隷制のないところなのでそこを目指しますが、結局通り過ぎてしまいます。不運にも川を上ってくる蒸気船に筏が壊されてしまいます。流れ着きグレンジョーフォード家に辿り着き、そこに世話になります。そして、そこの奴隷が流れ着いたジムに会わせてくれました。そこの家族は裕福ですが、恨みを持つ家と何十年も争って暮らしていて、ある時、大きな戦いになり一家が殺されてしまいました。必死になって逃げジムを探し、以前のように筏で川を下ります。しばらく穏やかでしたが、ペテン師二人が筏に乗り込んできて、なんとハックルたちは召使のように二人に翻弄されます。愉快なことや、とても許せないことなどがあり、毎日危ない橋を渡るようでした。何とか二人から逃れます。しばらく無事でしたがジムがつかまってしまいます。
 ハックルは、ジムを助けようと、ジムがとらわれている家に入り込み、トム・ソーヤと間違われて成りすまします。そこになんとトム・ソーヤがやってきますが二人は口裏を合わせてそこで暮らします。なんとか二人でジムを助けます。しかし、トラブルになりますが最後にはジムは自由の身になってハッピーエンドで終わります。

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やっぱり本物はすごい

六月の初めに宝塚歌劇と吉本興業に行ってきました。
 宝塚は「エリザベート」で雪組の公演で、二階のB席で見ました。
会場は広く、二五五〇名の収容です。舞台と客席の間にオーケストラと花道のスペースがありました。満席でしたが、男性の姿を見ることはありませんでした。
 雪組のメインキャストは、水夏希・白羽ゆりで、休憩時間にコーヒーを飲んだフロアーでは、十五mほどの壁一杯に主演の二人の抱き合うシーンが引き伸ばされていました。
 あらすじは十九世紀の末、オーストリア=ハンガリー帝国の美貌のエリザベート皇后の話です。
 少女時代に、綱渡りして落ち、黄泉の国に行き、黄泉の国の帝王トートがひと目でひきつけられ、エリザベートに命を返してやり、そして、その愛を得ようとします。しかし、エリザベートは、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝に見初められ結婚。皇太后との確執で幸せではない結婚生活を送ります。ハンガリーでは激動の時代で独立を望む声が出るが、皇后美貌のエリザベートの登場で、国民が歓呼へと変わります。エリザベートは美貌のために、毎日ミルク風呂に入るほど美に執着します。その後、皇太子が黄泉の国の帝王トートの謀で、革命にかかわり、皇帝に知れ自殺します。悲しみのエリザベートは、放浪生活を送り、暗殺者に殺されるが、死の際には、トートの存在を認めその愛を受け入れ共に天国に行く。というストーリーでした。
 メイクは目と口を強調し、男も女も美しくやるせない声で艶っぽく語りかけるシーンが多く、豪華な衣装にうっとりと見てしまうものでした。
 最後のフィナーレは、孔雀の羽を背にし、華やかさがましウキウキするものがありました。一種倒錯する世界を作っていました。
 なんばグランド花月でのお笑いは、当日券は立ち見席しかなく、立っているのが辛く膝で立つ格好で見ました。宮川大助花子やザぼんち、桂きん枝、池のめだか結成の「ちいさいおっさんバンド」で、ミスター・オクレや小藪千豊などの出演でした。会場がドット沸くシーンがたくさんあり面白く、東京の寄席と違って何しろにぎやかでした。
 宮川大助花子は、病気の話だったのですが、ほとんど笑っていました。病気も気の持ちようで笑い話になるんですね。花子さんの品格が疑われるためテレビでは話さないことも、何食わぬ顔で話し、ワァーという大口で笑う笑いを取っていました。やはり、漫才も生で見たほうが面白い。
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久々のたまに行くならこんな店♪
「多国籍家庭料理ロータス」を紹介いたします。
 このロータスを知ったのは、山梨県立大学二年次の安藤淑子先生のゼミで、外国籍児童向けに、楽しく日本語を覚えられるようにと、ゲームやタスクなどたくさん載せた「みる あそぶ にほんご」を作りました。そのゲームをやっていろいろな意見をくれたのが、ロータスのご主人の長男日出雄くんだったのです。
 ロータスは、アピオの前にある駐車場の北側に面した所にあるサーモン色のおしゃれなレストランです。二〇〇三年九月にオープンしたタイ、ベトナム、フィリピン、中国、韓国など、本場アジアの家庭料理が楽しめるお店です。
 店内は広く天井も高く、四人がけ用の五つのテーブルが並び、天井からはアジアの民芸調の布が吊るされ異国情緒があります。右奥にはカウンターもあります。コースターやランチョンマットがイグサであまれたもので珍しいものです。
 奥さんは、彫の深い目鼻立ちのはっきりした方で、流暢な日本語で迎えてくれました。ランチタイムには三つのセット(八二〇円)があり、その日により変わります。私はAランチの「タイのあんかけうどん」を頼みました。薄茶色のきしめんみたいなおうどんで、青菜と豚肉の具で醤油味のようなあんかけでした。おうどんはやわらかくきしめんより薄くおそばに近い食感でした。サラダとデザートとたくわんがついていました。好きなドリンクがセットにプラス百円で頼めるというのでタイ風紅茶を頼みました。甘く強い香料が入った初めての味でした。
 メニューにはトムヤンクン一四七〇円チャーハン八四〇円レモングラスと鶏肉の炒め物九四五円スチック・ライスふかしたタイのもち米四〇〇円など数十の種類が写真入で説明もありました。ゆっくりディナーも楽しめます。飲み物も三十種類あり私はタイ・スパークリングワインというのを是非飲みたいです。
 ご家族や仲間、無尽などの集いで、珍しい食べ物や飲み物を分け合い味わいながら楽しいひと時を過ごしてみませんか?
 なお、奥さんはボランティアでタイの料理の講習や遊びなどを伝えている方で、「お年寄り大好き」というあったかい心の持ち主です。
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躍動するカワセミの写真 廣瀬博

二五日(日)にJR中央線の西八王子駅前のギャラリー・トラウト(たつみやビル3F)にて、廣瀬博写真展「狩人たち」−カワセミ・アカショウビンーを見にいきました。
ドアを開けますと、白の壁と、木目の床と天井がさわやかなオープンしたてのギャラリーでした。
明るい室内にブルー系統の作品が三〇点ほど展示されていました。最初の作品は中央にカワセミが大きく羽ばたいている姿を上から写しており、木の実の赤が対照的に写されているものです。作品の多くが、カワセミが水辺で小魚をくわえて飛び立つ姿がいくつも激写され、水滴や川面の造形がそれぞれ違う表情が映し出されているのに驚きました。また、一枚一枚の写真がどのくらいの時間をかけて一瞬のシャッターチャンスを待ったのかと思うと、先生の根気と思い入れが並みのものではなくプロなんだとあらためて納得しました。また、どれも躍動感があり、アップに映し出された力のこもった作品で、技術の確かさがあってのことはもちろんですが、先生がカワセミやアカショウビンを見つめる温かさが溢れていて、鳥の表情までが写っていると思いました。
 先生は、旧塩山市の出身で日川高校から東京教育大を卒業して神奈川県の秦野市で小学校の先生をされました。一九八四年から環境問題からカワセミを写真を独学で学び、一九九六年に先生をやめネイチャーフォトグラファーとして活動を始められました。新宿三井ビルでペンタックスフォーラム開催の写真展や月刊カメラ雑誌『アサヒカメラ』にグラビヤに掲載され、フォトCDなども出され活躍されています。
 先生が写真を手がけたことは、野鳥を好きだった事も動機ですが、子どものとき画家になりたかったからだそうです。先生の作品から、絵の構図を意識してのシャッターのきり方が感じさせられるのは、絵画の素養があるからとうなずけました。
心臓移植 手塚義人さん
募金目標額九〇〇〇万円

山梨県立女子短期大学の同窓会で、手塚義人さんの心臓移植のための募金活動を知りました。
 手塚さんの奥さんが県短の同窓生で、有志が会の集まりで協力を訴えました。奥さんも看護の様子を気持ちを込めて訴えました。有志の方の一人が「いろいろな集まりのある度、募金の協力を訴えています。」と話していました。募金目標額が九千万円との大目標なので、そのように多くの人に呼びかけねばとても達成できる金額ではありません。
 手塚さんは南アルプス市に在住しており「拡張型心筋症」という病気で、平成十八年十一月に補助人工心臓装着手術を受け、心臓を移植する以外助からない状態だそうです。子供さんは小学生と中学生の二人おり、是非手術をしたいと決意されたそうです。思いはかない米国のカリフォルニア大学ロサンゼルス校で受けてもらえることになりました。善意の輪を広げ募金目標額に達せられるよう願ってやみません。
口座名 手塚義人さんを救う会
山梨中央銀行本店    普通1915810
山梨信用金庫石和支店  普通0399543
甲府信用金庫東支店   普通0209521
山梨県民信用組合酒折支店普通1009212
甲府川田町郵便局郵便振替口座
          00270-3-114574
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文化財は人間形成に活用

市川マップの会では、二月四日(日)、市川三郷町民会館大ホールにて第四回 まちづくりフォーラム、文化庁・主任文化財調査官 江面嗣人氏「登録有形文化財について・まちづくりにおける文化」の講演等を行いました。講演が終わった後もしみじみと思い返す講演でした。
講演の様子を地域資源を活かす会の山本さんがブログに発表されたので紹介します。
 
 前略
 文化財とは、そしてその保存と活用について、私見を交えてのお話で、大変参考になりました。
 全国各地で「歴史を生かしたまちづくり」と銘打って、金をかけいろんな施設を作ったりしているが、大方七十〜八十%の人が勘違いをしており、借り物や贋物を作ってしまっている。
 要は「本物が残っているか、その地方の文化を大事にしているか」である。
 文化財は、物としてだけでなく人との関わりをもっており、それが次の日本をつくっていく材料として、人づくりに役立たせることができるものである。
 文化財調査官になったばかりの頃、年金生活をしながら山奥で大変な思いで重要文化財を守っている老夫婦から「なぜ守らなくてはならないのか」といった素朴な質問を受け、その時には答えられなかったが、結局は、文化財保護法第一章第一条(この法律の目的)に「この法律は、文化財を保存し、且つその活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進捗に貢献することを目的とする」とあり、これに尽きると思い至った。
すなわち、「人間として高度な精神を築き上げるために文化財を保存し活用することだ」、と。

 小説、絵画、映画、芝居などの良いものを見ることで、一流の芸術にふれ共感することで精神性を高めるきっかけが生まれる。有形文化財もまた然りである。
 物には機能性とデザイン性があるが、いくら良いものでもそれだけでは交換可能である。
たとえ気に入っている時計でももっといいと思う時計とは交換してもかまわないが、それが形見の時計であれば交換はできなくなる。
 歴史性が加わると唯一のものとなり、もはや交換はきかない大事なものとなる。
 次世代の子供たちを贋物で育てて良いのか、与える食べ物も同じで、本物で育てる必要がある。
 といったお話の後、有形文化財には指定と登録があり、登録文化財は自分たちで守っていくと決めたもので、どこにでもあるような塀や井戸といった事例を写真で見せていただいた。

 と、江面先生の講演の概要を的確にまとめてくれました。
 
 私が江面先生の講演を聞いて一番心に響いたものは、子どもの育て方の話でした。「ある日奥さんから赤ちゃんにジュースを買ってこいといわれたので、買ってきたら『あなたは、赤ちゃんに百%のジュースではないものを買ってきた。あなたは、自分の子どもをニセモノの味で育てるの?』と、言われた。」と、話されたことでした。
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文化庁の江面先生の講演


 市川マップの会では、二月四日(日)午後一時三十分よりから市川三郷町民会館大ホールにて第四回 まちづくりフォーラムを行います。文化庁・主任文化財調査官 江面嗣人氏をお迎えして、「登録有形文化財について・まちづくりにおける文化」と題して講演等を行います。
 市川マップの会は昨年九月より登録有形文化財「福金楼」を市川三郷町のまちづくりの拠点としてを何とか残していただけないかと運動を起こしています。十二月に「福金楼 再発見・写真展」を開催し、三一五名の参加をいただき、NHKをはじめ山梨日日新聞等メディアでも大きく取り上げられ、さらに「福金楼・再発見・文集」を出版しましたところ皆様方からの励ましの言葉を戴き、この度の講演となりました。
 ご多用とは存じますが、知り合いの方もお誘いの上、ご参加賜りますよう宜しくお願いいたします。


日 時 二月四日(日)午後一時三十分
場 所 市川三郷町民会館大ホール
主 催  市川マップの会
協賛   市川三郷町協会


 市川マップの会では、昨年の十二月十七日から二十四日まで市川三郷町商工会において「福金楼 再発見写真展」へ行いました。
 国の登録有形文化財「福金楼」が人手に渡り、取り壊される危機にあるため、福金楼の所縁の方や市川の方々にそのことをお知らせし、福金楼が市川の「お宝」であることを再確認するために行いました。たくさんな福金楼にまつわる話が伺え、文字道理私たち市川マップの会にとっても再発見になりました。
 写真展でのひとこと集をまとめた文集をつくりました。一部紹介します。
 福金楼は、昭和十一年に市川本町駅前に新店舗を建設してから、格式ある料亭として栄え、戦時中には東京の学童疎開を受け入れるなど、時代の節目に大きな役割を果たして来ました。
今回の写真展では「福金楼」の上棟式から始まる建設に関わる苦心や結婚式・法事・イベントなど歴史的文化的営みを、思い出の写真・資料など展示してみました。建物のたたずまいや、そこで繰り広がれた歴史などを正確に伝える事ができたように思います。
おかげさまで、「福金楼」というお宝を多くの皆様と共有できました。しかし、依然、福金楼の取り壊しの危機はなくなりません。
わが町には関東大震災で焼失した東大図書館からの蔵書提供を受け、寄託寄贈した「青洲文庫」がありました。その象徴ともいえる、わが町の誇りであった「青洲文庫蔵」を取り壊わした過去を持っています。その轍を踏まないためにも、「登録有形文化財・福金楼」を保存しなければならないと思います。
今回、福金楼の建物の紹介や、学童疎開をされた方のお手紙、写真展でのひとことのメモをまとめた文集をつくりました。つたないものですが、町民一人一人が立ち上がる一端となることを願っています。
☆ 冊子をご希望の方は、当社営業、電話にてお伝えください。

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社長  一瀬 茂
新年あけましておめでとうございます。
 旧年中はご愛顧を賜り誠にありがとうございました。
 おかげさまで本年で創業一〇二周年を迎えます。
「亥」の字は「とざす・とじる」の意味で万物が枯れはて、生命力が種子の中にとざされた様子を表わしているそうです。
本場中国では「亥」といえば「豚」のこと。
広くアジアの国々も十二支にあたるものがあり、「亥」はイノシシでなく、ブタになっているところが多いそうです。
猪突猛進で二〇〇七年を邁進しようと思います。
 本年も宜しくお願い致します。
  合 掌

佐野部長
明けましておめでとうございます。
初心に立ち返り、平凡なことをどこよりも継続することに努めます。
本年も宜しくお願いします。

依田次長
初春
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

大塚リーダー
新年明けましてお目出とうございます。
本年も情報発信して行きますので、宜しくお願いします。

大芝主任
明けましておめでとうございます。
十月に担当が変わったのですがまだ前任者の印象が強いのですが
徐々にその印象を変えていきたいと思います。よろしくお願いします。

斉藤主任
新年明けましておめでとうございます。
元気・努力頑張ります。

保坂システムリーダー
明けましておめでとうございます。
いよいよWindows Vista office 2007が発売されます。
新しい機能がいくつも追加され大変便利になっていますので
ぜひ体験してください。

青柳パソコンランド講師
明けましておめでとうございます。
今年も健康に気をつけながら頑張ります。

保崎
明けましておめでとうございます。
今年は亥年という事で仕事でも突進していきたいと思いますので
宜しくお願いします。

丸山
明けましておめでとうございます。
一歩一歩確実に前進出来るよう頑張ります。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

小平
明けましておめでとうございます。
初心に戻り新たな気持ちで仕事に取り組んでいきたいと思います。
よろしくお願いします。

依田
あけましておめでとうございます。
今年も元気いっぱい公私ともに充実した一年にしていきたいと思います。
本年もよろしくお願い致します。

村松
健康で明るい年になりますように今年もよろしくお願いします。

一瀬
毎日が前向きに、工夫を凝らし一歩一歩進むよう努力します。

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七月二二日(土)に市川マップの会が中心となり、三町合併に伴い『市川三郷町の融合』『市川高校の存続』というテーマで百人委員会を行いました。旧三町の融合を計る為全員の発言できる「井戸端会議」の方式で行い、一五四名の市川三郷町の町民が集いました。
  準備会は実行委員が四回行い☆政治的な動きをしない。☆行政への要望など、会議で出たことを町当局に知らせ、要望する。☆会議での意見を集約して、出席者全員に配布する。☆提言のみにて意見の集約のみとし、政治的な事柄・政治的な解決案等は排除する。☆動員 フォーラム委員一名に付き十名の動員。☆まちづくりに関わるグループに参加を働きかける。「大同地区公民館幹部・MMC他」☆市川高校の松土校長・先生・生徒も参加してもらう。☆資料の決定と配布の仕方、アンケートをとる。などを決め、市川高校関係者を向かへ勉強会をしました。

  当日の会場は「行政が我われの為に何をしてくれるのではなく、我われ、一人ひとりが『まちづくり』にどのように係わりを持てるのか?」の視点で、住みやすく・誰もが誇りと思うまちづくりに思いの丈を熱く語り、それぞれが触発され、打ち溶けて大きな、一つの輪になりました。
  意見の一部紹介します。『市川三郷町の融合』☆情報の共有が必要。事後の情報等の情報が多いが、事前の情報が欲しい。旧六郷からとかの、各地区から積極的に発信したほうがよい。☆三地区の融合は時間がかかると思うが、人と人との交流によってはかれるものである。それぞれ、身近な地区のことしか知らないので、今日のような交流の機会を多く持つことが必要だ(全員の意見)☆合併の意識は希薄、旧地域のまとまりが強い、町の発展には規模の拡大は必要だと思う、公共料金の格差が住民の居住地域の移動を促す要因となる。(甲府市の方に移って行く若い人がある。)教育費、医療費への配慮が必要ではないのか。☆高校生も町のイベントには積極的に参加したいが移動手段がない。町営バスの運行をイベントに合わせて運行していただきたい。(高校生)☆みさと秋祭り(第一回)を合併直後の昨年十一月に行った。参加者は千人ほどで、盛会だった。毎年 十一月の第二日曜と決めた。今年も盛大にしたい。多くの町民が参加することで融合が生まれる。
  『市川高校の存続』☆先生方が生徒一人ひとりの特徴をしっかりつかんでいて生徒とのコミユニケーションがしっかりと計れている学校と思う。(生徒より)☆少子化が一番の問題。市川高校を志望する生徒全員を受け入れる姿勢が大切。☆校風が素晴らしいと評価されている。(身延線車内の生徒のマナーから)☆町のスポーツ施設を使うのに大変、町民体育館を同好会ではつかえるが学校の部活動では使えない。部活動でも使えるようにして欲しい。(市川高校生)
お問合せいただければ会議の意見集約集をお届けします。

実行委員   望月勝   古屋詔子  赤池幸久有泉志づ子 青柳好美  
        小林俊彦  村松正人近藤憲二  一瀬八重子 薬袋秀樹  
        丹澤孝

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 清里の「萌木の村」の舩木上次さんが
             県立大学で講義をしました。


 
舩木さんのお父さんは、八十数年前、小河内ダムに沈んだ小菅村から清里に移り開拓した方だそうです。
開拓農業は、苦難の連続でしたが、困った時手を差し伸べ合う共同体だったそうです。最初の収穫の蕎麦は、実が三粒しかつかず、「線香そば」と呼ばれました。その三つぶの粒は、「一粒は来年の種に、一粒は自分で食べ、一粒は人様のもてなしに使へ」と、決めたそうです。今でもこの言葉は、大切に伝わっています。
 戦後、清里に、ポールラッシュ博士が、草の根民主主義を根づかせ、豊かな生活ができるモデル事業を起こそうとします。山梨県から三百万平方メートルの土地を借りて、酪農の指導をされたそうです。
 そして、舩木さんのお父さんも、ここの牧場頭で活躍されました。
 その後、清里は、風光明媚の場所であり、外国風の建物も点在し、広い農場にジャージー牛がのんびり牧草を反芻している様子など、異国情緒があり、観光スポットになっていきます。その風景を愛する人たちがペンションを建て、移り住んできます。また、地元の方たちは民宿を始めます。どちらも素人経営ですが、ペンションの経営者は、コンサルタントの教育を受けてきます。
 宿泊施設が飽和状態になると、地元の方たちの民宿が経営が成り立たず、清里を去って行くという残念な現象が起きます。そして、清里はミニ原宿のような感じを受けるようになり、若者の闊歩するところとなります。
 舩木さんは、このような清里になる前、一九七二年に清里で初めての喫茶店ロックを始めます。まだ当時は、甲府にもないような木目の際立つ店内に、ロックやジャズが響き、しゃれた気分になれると、当時の若者に好評を博しました。その後、「萌木の村」を造り、オルゴール館を造り一躍脚光を浴びます。最近の舩木さんには、全国各地から講演の依頼が来て、全国の町づくりの方との接触があり、さらに多くのアイデアを持っていきます。この頃からドイツと清里の子どもとのホームスティを始めます。一九九〇年から、清里でフィールドバレエの公演を初め、二〇〇二年、ちいき経済賞「ふるさとスプリット賞」を受賞し、二〇〇三年、観光カリスマ(第二回)に選ばれました。本物指向で、エネルギッシュな舩木さんは、留まる気配はありません。清里が、どんな観光地になるのがいいのか、舩木さんの胸には青写真がありそうです。清里の明日が見落せません。

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清里フィールドバレエ


恒例の清里の「萌木の村」でフィールドバレエの公演の紹介です。
おやゆび姫・
くるみ割り人形
天上の詩
     エメラルドシート      一万円
    クローバルシート   五〇〇〇円
    フリーシート     四五〇〇円
        小人      二五〇〇円
    前売券         四〇〇〇円
        小人      二〇〇〇円
七月二十七日(木)から
 八月九日(水)  (八月二日休演)
開場   午後七時
開演   午後八時
清里高原 萌木の村 特設野外劇場
問合せ先 〇五五一ー四八ー三五二二

みさとSundayカフェ&ギャラリー
市川三郷の会では、毎週日曜日に、カフェ&ギャラリーを始めました。場所は、碑林公園の南の楽園葡萄酒です。市川三郷の会は、市川三郷町に住む芸術やものづくりをされているが中心になっています。去年の十一月に大盛況を博した市川三郷祭りの主催者で有名です。しっとりした気分を味わうのには最適です。

創業百周年の記念誌
ー市川大門散歩マップ2副読本
邦文堂の百周年を記念して、市川大門散歩マップパート2の副読本を作りましたが、山梨日日新聞に載ったため、問い合わせが多く、製本に追われています。お申し込まれれば、少し遅れますが、必ずお届けしますので、お待ちください。
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パソコンちょっと一言 メモリーの話

最近パソコンの動作が遅くなったと感じたことはありませんか?
新しくウイルスソフトをインストールした、Windows XPをサービスパック2にバージョンアップしたなど…..
メモリーを増設してみませんか?パソコンの処理量が増加した際、メモリー容量が少ない場合動作に時間がかかります。
メモリーとはパソコン内部に設置されている基盤のことで増設して処理量を上げることができます。 起動時に時間がかかる。処理中に止まってしまうなどストレスに感じるようでしたら、お手持ちのパソコンのメーカ型番など型番などお調べのうえ弊社担当営業まで連絡お願いします。


山梨に夜間中学を                  

十二月に、オアシスの山崎俊二さんの講演を聴く機会を得ました。
 オアシスは、「外国人が、この国で困っている事があれば、手助けをしたい。」という福祉関係者、宗教者、市民活動者を中心に設立されたボランティアの山梨県内の組織だそうです。
 活動は、労働関係のトラブルでの行政や司法関係の手伝い。医療や健康保険の問題。子どもの教育。日本語の教室。生活上の問題など、多岐にわたります。また、外国人の人権を守るため、フォーラム、講演会、相談会、法律の改正運動も行っているようです。山梨は、神奈川県や東京都等のいろんな団体等から支援を受けて、一九九二年に立ち上がったそうです。
 講演では、山崎さんが、売春強要や、暴力などで身柄を拘束されている人の要請による救出劇や、外国人の相談の傾向の話をしてくれました。また、外国人の方とのたのしい交流風景などもありました。
 今年になり、オアシスで、子ども会があるからと聞いて、十九日(木)にお邪魔しました。
お部屋は、家庭的な雰囲気で、カーペットが敷かれ、机と椅子がたくさん並んでいます。子どもは、明るく楽しそうに、ボランティアで来ている梨大生や都留文生に、マンツーマンで教えてもらっていました。十数人の子どもは、小学低学年から高校生まででした。高学年の子が、騒いでいるのを見て、山崎さんは、「今日は、子ども会だから勉強しなくてもしょうがないか。」と、ニコニコしていました。
 山崎さんが勉強家のA君を紹介してくれました。山崎さんの話しでは、彼はがんばっているが、日本で学力を付けるのは難しいこと。問題はすべて日本語で、書かれているので、問題を解く前に、何についての質問かをまず読み、それを頭の中で母国語に直し、考え答えを導き、それを日本語に直すので、なかなか、高得点を取れないと教えてくれました。
 人の思考していく行為は、言語で突き詰めてくので、一つの言語に精通していなければ、考えが深く及びません。
会話ができても、成績には直接結びつかないようです。そこで学習言語が大事になっていきます。できれば、母国語で学習できる学校が望まれますが、なかなか実現は難しいようです。山崎さんは、中国語、韓国語、スペイン語、ポルトガル語の四ヶ国語の授業があればいいと考えているようです。
また、子どもたちにも聞くと、今の県教育委員会のサポート体制は、日本語の教師一人が数校の学校を持ち、日本語を教えていますが、基本をマスターするまでで、それ以降はサポートできない制度のようでした。私は、その後様々な授業で分からないところなどの質問を受け付けるシステムが必要なことと、母国語が使える授業も少しでもあれば、子どもにとってリフレッシュできる大きな支えになるのではないかと感じました。
 もうひとつ望まれるのは、夜間中学だと、山崎さんは話していました。今残念ながら、山梨にはありません。中学卒業は、就職、高校進学にとって、キーとなります。夜間中学のシステムでは、日本語のみの授業でも、学力はつくようです。この方法は実現の可能性が高いので、早く、山梨にも誕生すればと願っています。
 ペルー人のスペイン語の通訳の方と知り合えました。勉強家で自慢の娘さんがいるそうですが、「娘はスペイン語が得意でないし、私も深く日本語が話せないので、三十から三十五パーセントぐらいしか分かり合えない。また、子どもに勉強を教えてやりたくても教えられない。」と、親としての悩みを話してくれました。山崎さんのお話では、必ず子どもが母国語を否定する時期があるのだと話していました。そして、学校の三者面談でも、子どもが先生の言葉を通訳することになるので、親が先生に子どものことについての悩みを尋ねることはできないようです。ほとんどの子が、自分で進路を決めるのが現実のようです。
ただいま、オアシスでは、会員を募集しています。
 個人会員 年間 一二〇〇〇円
 団体会員 一口 一〇〇〇〇円
 賛助会員 一口 二〇〇〇〇円  
甲府市愛宕町一四七ー二
電話 〇五五ー二五二ー一二四四
山梨外国人人権ネットワーク・オアシスメールアドレス
yamanashi_oasis@yahoo.co.jp
ホームページ:
http://yamanashi-oasis.seesaa.net/ システム課リーダー保坂 宏紀
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市川大門町並みウオッチング パート2

十一月二十日(日)に八幡公民館主催の町並みウオッチングが、行なわれました。
 九時三十分に八幡公民館に集合しました。二十名ほどの参加で、市川の中心部の一部を訪ね歩きました。

十月号続き青柳義人先生宅からガイドの要点をまとめて紹介します。

 *青柳義人先生宅
 二階建ての蔵座敷で、入り口の扉は今でも開け閉めできます。
大正十年頃の建物で、宝珠院の鐘楼を建築した大野大工さんが建てました。
 建てられた当時は、呉服店でしたので、高価な反物を置いたり、客間として使われていました。
戦後、住まいとしたため、台所などを足されました。
 外壁は、一瀬治三郎さんが、手の平で仕上げた名人芸で、鏡のようにつややかで、人の姿が映ったそうです。
ご長男が、昭和五十六年、卒論に市川のお蔵の調査をしたところ二百十九軒あり、各蔵について三十項目調べ上げました。
 平成六年、私の調べで百八十二軒でした。

 *市川教会 登録有形文化財
 明治三十年の建物。叶屋、渡辺沢次郎氏が敷地と建築費を献納。会員有志の献金を加え建てられた。
 お蔵を思わせる厚壁に、瓦葺。石積みの上に建てられています。市川幼稚園も大正十三年に造られた。
山梨のキリスト教伝道は、シーエス・イビーが伝道師で南部町に来たのが最初です。市川には、明治十五年村松義則氏(一丁目松田屋)宅で伝道集会が開かれたのが始まりです。

 *丹頂堂印刷
 市川一の美しい千本格子と謂われている木造二階建ての母屋の隣に二階建てのお蔵が続いています。大寄又左衛門氏が明治の初め頃に建てました。昭和十六年に製糸業が不振に陥り、丹波屋さんが買い取り、四丁目から移られました。
 丹波屋さんは、古くから紙の販売を生業にしていた名家です。 千本格子は、厚いケヤキの板で支えられています。
 大戸は一間あり、九十度の回転式です。中庭には水路が通っており防火を兼ねた池があり、かつては、この水路が台所にも通っていました。

 *村松嘉世子宅
 明治二十八年の建築。一階は木造、二階はお蔵造り。今では珍しい二間もある籠寄せの正面玄関は、結婚式の正客さんと、たな経をあげられるお坊さんと限られています。引き戸となっている大戸は現在も使える状態です。
庭に石造りの水路があります。

 *福寿院 正和二年(一三一三)
 寛政二年(一七九〇)に建てられました。梁間十一間、桁間六間四尺の平屋造り。雨戸の引戸も土壁が塗られています。廊下は、一間のケヤキ板。観音開きの大きな戸が東にあります。七間で、上段の間、角の間、本堂、本堂の続きの間、書院の間、広間が二つ。本堂の柱に菊の飾りがついています。千二百余年前は、平塩の岡の平塩寺の支院で、碑林公園の東側にあったようです。現在地には、貞和二年(一三四六)真言宗法印源秀僧正によって移られました。ご本尊は、毘沙門天。
 東山天皇の弟にあたる伏見宮邦永親王直筆「高学山」「愛宕山大権現」の額二つ、大納言の藤原其時卿、其の子の基輔卿の位牌。坐光寺南屏の篆刻があります。境内に一七一六年の建築、地蔵堂があります。
 しだれ桜は、夜桜が見れるようライトアップします。


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市川大門町中央部町並みウオッチング パート1

九月二十四日(土)に県の博物館に収蔵したゆかりの地を歩く、つなぐNPO「まちミュー」の主催で、第二弾の町並みウオッチングが、行なわれました。
 十時に市川本町駅に集合しました。三十名ほどの参加で、午前中、市川の中心部の一部を訪ね歩き、午後より、碑林公園や平塩の岡の名所旧跡を訪ね、その後、増穂町の「酒蔵ギャラリー六斎」を訪れます。
 市川マップの会では、午前中の中心部の案内を引き受け、「山梨の桜」で有名な村松正人さんが、ガイドをしました。
 本町駅の構内で、市川マップの会の会長の一瀬茂さんが、歓迎の挨拶をし、村松さんが紹介され、ガイドが始まりました。
ガイドの要点をまとめて紹介します。
 *保泉の道祖神
道祖神とは、さえのかみとも呼ばれ、地域の仲間の生活を守るため、道を守り、邪霊・悪鬼の類が立ち入らぬように置かれたもので、また、子孫繁栄のための願いもこめられているともいわれています。  
 現在 市川大門町には四十箇所以上あり、なかでも双体道祖神が多いところです。造立年月日が、刻まれたものが少なく、帯那の石原健造さん前の物が天明二年正月十四日(一七八二)で最古で、七丁目の円立寺の天明七年、五丁目出口十字路の文化五年(一八〇五)一丁目御崎神社前の文政八年(一八二五)等があります。この他に、自然石、角石等に道祖神と刻まれたもの、石祠・道祖神場もあります。(青柳寅男氏著他参考)

 *宝寿院
 山門・・・・安永の頃寺に住んでいた源二という六部が数年托鉢した浄財で、寺へのお礼に天明の始めに建立したといいます。(廻木忠造氏著)
 木喰観正の石碑・・・(木喰とは、雑穀類を火を通さず食す修行した僧の意。)文政二年に同院に入寺され、多くの病人や迷える人々を救い徳を施したそうです。町内に観正自筆の「南無阿弥陀仏」が保存されています。(廻木忠造氏著)
 鐘楼・・・・明治時代に再建された。鐘は、享保五年(一七二〇)に甲府横澤住小田切佐次兵衛毘近・雨宮佐次右衛門規泰によって墓地の西方で鋳られ、郡中の善男善女が金銀を投げ入れたと言い伝えられていますが、他の所で鋳られたとの説もあります。(中倉茂氏著他)
 夢窓国師によって造築されたという庭園・・・園内にコノテガシワ・アララギの二樹と共に町の指定文化財、天然記念物に指定(昭和四十八年)されている。
 業計・・・・キリスト受難の図ともいわれた事がありましたが、今は、死後、生前の行いの業を計る図、「倒懸」の苦しみの絵といわれている。北野天満宮所蔵「北野天神縁起」や六道絵と称する絵の中にも出ているそうです。(青柳寅男氏著参考)
 秋山家の電燈のある墓・・・秋山喜蔵氏に甲府電力鰍謔闔R梨初の芦川第一発電所を造った偉業を称えて永久に灯すために建てられた電燈。甲府電力鰍ェ東京電力になり現在、灯されていません。

 *福金楼 登録有形文化財。
明治二十四年創業の老舗料亭。現在は、京料理、先代は鰻が有名。中線の場所より、昭和十一年(一九三六)身延線開通時に向け市川本町駅前である現在地に移転しました。グンゼ工場の設計者に設計を依頼。L字形の二階建。二つの大広間や赤白檀の床柱、釣鐘形にくり抜かれた壁に冨士山や帆立の小さな舟が細工されている障子の建具がはめ込まれており凝った造りです。

*市川陣屋 県史蹟指定 大正一三年
市川代官所跡。今は正門を残すのみ。門は、以前、前の道路を西に十数m、(古倉の通りの始まりになる)道をまたぐように建っていました。
明和元年代官の出張所となり、寛政年中に本陣となりました。代官の居間、手附、手代取締公事方(裁判)など堂々としたものでした。明治維新後、役所に変わり、土地の一部は学校や町役場で使用。昭和九年、小学校、役場が移転のちに宅地道路となりました。
 *ひやを歩く
ひやとは、左右に屋根がある、軒の下の狭い私道をいってますが。今木屋さんの大きなお倉があった「倉庫のひや」と呼ばれた広めの道の事もいわれています。日のささないひやっとする道が多いといえます。
次回は、青柳義人先生宅から紹介します。

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「日本人の忘れもの」 五木 寛之 氏講演

 6月13日(月)山梨中央銀行講演会で五木寛之氏の「日本人が忘れたもの」
と題した講演を聴きました。日本人の忘れてしまった「愁い」をテーマに語られました。
「蓮如」「大河の一滴」「他力」「日本人のこころ」など代表作があり、1981年より
休筆、京都・龍谷大学において仏教史を学ぶ、1985年より執筆を再開し
現代、直木賞などの選考委員などを務められているそうです。
 現在の病んでいる日本の時代を適確に捉え話し方にも気負いもなく
解り易い語り口の講演でした。
今の日本は、年間3万人の自殺者があり、非常に切ないことです。日本人の心のあり方を探る話でした。
 「やって出来ないことはない。」という前に、前に出てゆく姿勢と、「萎える心」
どうにも自分の心を捉えて放さない、萎えて生気を失う姿勢がある。
健全だけでは無い、暗く心が萎えることが時として大切ではなかろうか、と話されました。
 中国の唐の時代「暗愁」と言うことばがあり、愁いはいつも人の心の中に住み着いている。
その事を大切にして生きてゆく。と言うことだそうです。日本人も親鸞の「心萎え、号泣せよ。」と明言し、明治維新から大正時代、森鴎外・夏目漱石などの文化人が
宝のように大切に使って来た。
明治に富国強兵を唱え、明るさ・前向き・軽妙・力強さばかりで、「暗愁」は戦争・戦後と何処かに置き去りにし、失われてきた。一日には晴れた日も曇りの日もある、一日の内に幾度と無く人の心を「暗愁」が現れたり、引っ込んだりしているはずです。
その事を無視すると、大切な選択のときに進むべき道を誤ってしまう恐れがあります。
韓国にも「悒恨」ユウハンと言う言葉があり、感動の跡に裏寂しさがあり、その事を理解することが君子の感動の仕方である。「悒恨」ユウハンは韓国の国民的感情で津波のように繰り返し起こる困難をため息をついて乗り越える知恵であります。「恨晴」はんはれ、「トスカ」
憂鬱な愁い、魂の奥に「トスカ」に獲り付かれ人間は生まれながらにして、「フサギ虫・トスカ」を持っていて、その虫が、いつも心の中に住んでいる。現在の日本は愁いを忘れ、愁いを性悪説としてきた、悲しくなくことを女々しいと否定してきた。捉えて放さない「トスカ・フサギ虫」
の存在を、心の扉を開くことが大切です。「フサギ虫」を否定するのではなく、心萎えることを素直に受け入れ、巨大な「暗愁」に捉えたれても、自殺などの道を選ばず、生きる力拠りどころとして、自分をジット見つめる大切さを再認識する時である。と講演なされました。
子どもを含め、悲惨な事件が相次ぎ、日本人の心が「暗愁」に囲まれ、そのフサギ虫
真正面から立ち向かうことにより、忘れてしまった心の愁を見つめ直して行くことにより五木寛之氏が複雑な現代社会において、進むべき道を指示されました。

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ついに、市川大門散歩マップパート2完成!!

市川マップの会では3月に市川大門町や市川商工会の依頼を受け「市川大門散歩マップ」パート2を編集しました。B二判厚めの薄茶色の紙に黒と青の印刷です。B五判に折りたたんで、持ちやすいものになっています。
 宝寿院の鐘楼が桜の花に囲まれた画が表紙になっています。有泉行尾さんの作品です。広げると表紙の下に御陣屋が描かれており、もともとあった場所の懐かしい情景の画です。中央には、市川の中央部の道の地図に名所旧跡、道祖神、代々受け継がれているお家、山梨大学の学生さんが平成14年8月に調べた水路が描かれています。その廻りを取り囲むように画が並べられています。上の段から宝寿院、花園院、福寿院、円立寺、右には、禅林寺、碑林公園、JR市川大門駅、JR市川本町、下の段には、近江屋さん、扇屋さん、清水屋さん、村松嘉代子邸、村松久次邸とあります。どれも、有泉行尾さんと、青柳好美さんがその場に行って描かれた、朝の日を浴びて描かれたようなすがすがしい作品が並べられています。
 裏は、今村均さんが精密に描かれた作品で埋まっています。中央部にニ孝さんの屋上から南に180度見渡した、市川の家並みと、正体山や帯那峠、城山、万松山などの山波が描かれています。上の段は市川教会、丹頂堂印刷さん、川口屋さん、一瀬亮次邸、二葉屋さん、下の段には、風情ある市川大門の佇まいを含めて描かれた秋山亮邸、青柳義人邸、福金樓さんと線描が浮立つ見ごたえのある画が並んでいます。
 今回のマップの編集や画を描くのに本格的に取り組んだのは、短期間でやらなければならない事情だっため、産みの苦しみを味わいました。特に絵を担当された有泉さん、今村さん、青柳さんは、寝る間を惜しんでの作業でした。
 この度は、市川の中央部のマップをとの依頼でしたので、市川には、まだまだたくさんの名所旧跡があり、絞り込むことが大変な作業でした。いろいろ意見はあったのですが、依頼に添って吟味して選び、範囲を市川の中央部と限り、役場、碑林公園のみ加えることにしました。市川の良さが見た方に分かってもらうこと。また、町の方々や次世代を担う子どもが町に愛着をもってもらえるようにと願って作りました。市川大門町は、今年の10月に合併するわけですが、市川らしい風景を何時までも伝えるマップができたと思っています。
 

 4月28日に市川大門散歩マップパート2の発行パーティーをしました。市川大門町長、マップに掲載された建物の持ち主、山梨大学大山先生ほか学生さん、市川マップの会に縁故のある方、メンバーなど四十名近くの参加でした。会長や来賓の方のあいさつや、マップのできるまでの経過報告が済み、山梨大学の学生さんの市川大門町の道についての考察を、スライドを中心に発表がありました。談笑後に、フォルクローレのプロ並の演奏があり盛り上がりました。10年ぶりのパート2のマップの完成を、関わりあった方々と祝える喜びが、胸にこみ上げてくる会でした。

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ライオンズ広報誌に「青洲文庫」渡辺青洲の里を紹介
市川大門三珠ライオンズクラブ
                               一瀬  茂
市川大門町は甲府盆地の南端部に位置し、豊かな自然と、歴史に育まれた町です。国・県・町の指定を受けた文化財が43件もあります。千年の歴史を誇る和紙の産地であります。甲斐源氏の祖・源義清が天永年間に甲斐に入った時に紙漉が活発になりました。指導した下臣の甚左衛門は紙漉の術に秀でその徳を慕って、神明宮に祀られています。
 神明宮の祭りの花火大会には現在十万人の観客を動員するまでになりました。天永年間に代官所が置かれ、市川大門の人口は3500人を有したと言われています。
 市川和紙は、武田信玄にも愛用され、徳川家康も市川大門に入った時、市川和紙と出会い御用紙として採用しました。人肌のような紙の仕上がりに「肌吉紙」と言われ、紙漉職人たちを「肌吉衆」として加護しました。(現在、障子紙の生産は、日本一のシェアーを持っています。)
 渡辺家も市川大門の紙問屋「叶屋」として代々徳川家の将軍御納戸御用紙の指定を受け、苗字帯刀を許され、賦役の免除を受けていたそうです。江戸末期に渡辺青洲が「肌吉衆」の一人として活躍しました。御用紙は富士川舟運を経由し納められました。江戸の帰りに親子三代に亘り書籍の収集をしました。(父・寿は江戸の国学者・黒川春村を師と仰ぎ和歌、国学関係を、青洲は漢籍、史書、法帖類を、長男澤次郎は浮世草子草双紙,洒落本を収集した。)
 江戸、浅草広小路の古本を歩いて廻り書籍を買い入れ、収集した書籍は約10万冊に及ぶ壮なコレクションで、日本で最初の個人図書館・土蔵造りの三階建てを屋敷内に建立し、『青洲文庫』として公開されました。黒川春村も長く渡辺家に逗留し、「並山日記」を残しています。
 近代では、「近世日本国民史」の大書を成した徳富蘆花もしばしば『青洲文庫』に訪れていたようです。東京大学の図書館が、関東大震災で全焼の被害に槐あった時、この蔵書が評価され、紀州徳川家の南葵文庫・鴎外文庫・槐南文庫・エリオット文庫・阿川文庫などと伴に、東京大学付属図書館に寄託寄贈されました。一部は図書館の地下の耐火書庫に収納されています。また、図書館内の記念室(現在は自由閲覧室)の入り口には、伊藤博文の書『青洲文庫』が額となり掲げられています。
 渡辺青洲は文教事業にも活躍、明治5年官庁に出願し、「日新館」市川小学校を開校、初代の市川大門村長にもなっています。また、250両を献金し、「桃林橋」いう名の橋を架け、土木事業にも貢献して、大水害の時、青洲提をつくり今に名を残しています。
 明治30年、長男、澤次郎は市川教会を建造し、市川幼稚園をも増設しました。市川大門町の町の佇まいにも歴史の趣きが感じられ、次世代に伝承すべき遺伝子があります。
 市川大門三珠ライオンズクラブも少数ではありますが、偉大な先人たちのDNAを身につけ、誇りとして活動してゆきたいと考えています。
 ライオンズクラブの活動が変革を迎える今、先人たちのように、町を愛し、人を愛してライオンズの旗の下に集いたいと思います。
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梨大生の卒論に市川大門町の水路
 山梨大学工学部土木環境工学科の山本明弘(浜松出身)さんが、卒論に「市川大門町の水路」について取り上げました。

 市川の水路の歴史、水路の使われ方、水路での思い出(遊びなど)、水路の生き物などについて調べています。また、岐阜県にある郡上八幡の水路の利用を調べて、対比や提言をしており市川大門町にとっては、価値のあるレポートとなっています。

 私も五年ほど前に郡上八幡に行きましたが、緑と美しい水があり、歴史ある町並みの小京都のようなところでした。水や郡上踊りをテーマにした博物館があり、町を上げて水路を管理し、愛用されているのがわかりました。所々に地下水を吸い上げている水飲み場があり、「水船」と呼ばれる木製の箱が置かれ、風情がありました。

 山本さんのレポートによりますと、郡上八幡の水路は、主婦の共同の洗い場、防火用水、雪解けの排水、植木等への撒き水、子どもの遊び場などに利用されていること。水利組合により用水ごとに掃除当番があって管理していること。各家庭で使用済みの水は、魚類などの棲息する遊水池や観賞池に流し込み安全を確かめて水路に戻す配慮がされているようです。町の人たちの水に対する大切にしようという思いが伝わってきたと結んでいました。

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浜名湖花博
9月18日に社員旅行で浜名湖花博ヘ行きました。浜名湖に突き出た庄内半島の先端に長さ1.5q幅五百mもある会場で、4月8日から10月11日まで行なわれているしずおか国際園芸博覧会です。残念ながら会場に着く頃に雨が降っていましたので、館内にある観光案内係りに相談すると、館内を走るバス、フローラムーバーも雨のため運休なので、建物の中を見るコースを紹介してくれました。
 最初に山本寛斎がプロデュースした「きらめく未来の庭園」を見ました。高さ13mの円筒型立体庭園で、1mもあろうかと思うサボテンのような花が五つ池に咲き、赤や緑の照明が幻想的な雰囲気をかもし出しています。建物は、杉の皮を張りつけて屋久島の大自然をイメージしていました。
 次に巨大な温室パピリオン「花みどり未来館」に入りました。一億五千万年前からの生き残るジュラシックツリーが展示され、天井に届くような大きな恐竜のティラノザウルスが太古の昔を感じさせています。そこを過ぎると千株を越える見事な胡蝶蘭でうめ尽くされていました。紅色・白の配置で華やかなものになっていました。
次のコーナーは、育種技術紹介でした。表に世界で青に一番近いバラが展示されていて、白地に薄っすらと青味がかったものでした。青のバラを育てることは世界の育種家の夢で、展示されたバラは、世界のコンクールで入賞した品種、静岡県内の育種家によって作られたそうです。この他変わったバラやカトレアやユリなど珍しい花がありました。隣がオオゴマダラ蝶の庭で、百匹はいると思われる蝶が、美しい花々の間をひらひらと飛んでいました。クリーム地に細かな黒い斑点や放物線が無数にある熱帯にいる大型な蝶でした。その次には、温室メロンの栽培が二十株整然と並んでいました。一つの株が3mほどで、縦に吊るされ、土より、50p程のところに10cm程のマスクメロンが紐で補助されています。その他には、植物生産工場で使われているボッティングマシーンやムービングベンチなどが稼働していました。私たちの周りもガーデニングが盛んになっているので、この産業が大きくなっている事を再認識しました。出口にカフェテリアがあり、青バラのソフトクリームがあったので、早速食べてみました。300円で水色、バラの香りがほのかにして、おいしいものでした。
 庭文化創造館は、秋の庭をテーマにして、世界のガーデニングが楽しめます。イギリス、台湾、カンボジアなど、珍しい花やドリアンなどの果物もありました。日本の庭園もあり、苔やススキ、ムラサキシキブ、ききょう、りんどうなど、東屋も配して本格的なものでした。壁は、ネットの袋の中に木材を小さめに切って詰めており、会場内は、木の香りですがすがしくなっていました。隣の館には、月見がテーマになっており、ススキで囲まれた、広い野原のようなスペースで寝そべっている人が何人もいて、サーチライトで作られたお月様を観賞していました。月見酒のコーナーもあり、人だかりがしていました。
 歩き疲れたので、外のベンチに座っていますと、十人ほどのグルーブが、お花の植え替えを手際よくしていました。50代ぐらいの男女で、ボランティアの方のようでした。また、ゴミ運搬車は、電気自動車でゆっくり、動いていました。会場内に運河があり、そこを船が行き来しています。乗ろうと切符売り場に行きましたら、60分待ちとのこと、時間がなく断念しました。水辺の劇場は、つんくWave小室等「フラワー&スマイルコンサート」が行なわれノリノリの歓声があがりにぎやかでした。
 見晴らしの丘に上がりましたが、あまりの広さに全景が見えず、半分ほどの視野でした。全景を見るのならきらめきタワーに上るのがよいとパンフレットにありましたが、一日三回入場券発売時間が決められてあり、定員になり次第発売終了と書いてありました。しかも入館時間は、30分ごとの時間指定ですので、時間にゆとりがあるか、計画を立てていなければ利用できないものでした。
 のんびりとふれあいの庭を見ながら歩いて、ハーブの館・花夢香夢に立ち寄り、ハーブ茶と、苗のラベンダーをお土産に買い花博会場を後にしました。
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おかげさまで創業100周年
代表取締役社長 5代目 一瀬 茂
 平素は、格別のご愛顧を賜り誠にありがとうございます。「おかげさまで創業100年」という節目を迎えることができました。これも一重に、お客様、メーカー様のお陰と社員一同心中より御礼申し上げます。
 初代・善四郎翁(没明治35年)二代目百太郎翁(没大正7年)と続いて、三代目邦作翁(没昭和17年)は山梨県西八代郡役所から「古物商」の登録申請をし、明冶37年8月、認可を得たことをけじめとし、創業年としています。今期100年目を迎えるのであります。その前には、簣屋と呼ばれた時もあり、紙漉職人に紙漉き器・竹簣の製造か修繕をしていたのではないかと、言い伝えられています。二代目百太郎翁は市川一の大酒のみで身上を傾けたと言われたそうです。三代目邦作翁は創業者ということで、本格的に市川特産の和紙販売を始め、障子紙、半紙、糊入、塵紙等を県の中央、中巨摩郡方面を中心に天秤棒を担いで販売を行ったようです。紙を紙のまま売るのでだけではなく、書簡用の巻紙をはじめ、書道の手習い草紙を創り、通い帳、大福帳等の製造、また版木を起こして罫紙を印刷、和帳の製造も行い卸店として活躍する。市川大門町には、三軒の卸店があり、邦作さんは安売りだと評判で、店が繁盛したと、当時店に仕入れにこられた方から教えて戴きました。その頃は、自転車での営業が多く、朝、邦文堂に仕入れにこられる人たちにお茶をだすのが祖母の役割であったそうです。父邦雄は、紙製品販売に文具・事務用品を加え事業を伝承し、戦中の統制時代は郡下で三軒の配給紙の指定取扱所となりました。現在は私の代で、パソコン教室やOA機器中心の事務機器会社となりました。父から言い伝えられているのは、お客様第一主義に徹底すること、メーカー様のご支援を戴き共生する。従業員の生きがい創り。この三点です。時代は超えても、商いの本質は不変と教えられました。一つのことをコツコツと継続して実践する。このことを第一義と考えています。
三代目邦作翁は羊年生まれで、羊にあやかり文化を推進する紙を生業とすること誇りとしていました。現在は、動揺に文化を推進するOA機器・IT関連・情報処理関連が生業です。このことを継続して業とすることは、わが社にとっても大きな誇りであります。
比叡山天台座主 山田恵諦上人のことばに「一隅を照らす。」という言葉があります。「わが身をロウソクにして光をともせ」どんなに小さな光でもその光を守り灯し続ければやがては辺りを照らす光となる。創業100周年は、長く重い歴史と思います。邦文堂の精神の拠りどころであります。今後、この火を灯し続けたいと考えます。
先代の善四郎翁がパソコン教室を見て「がんばりなさい。」と言っているのが聞こえるようです。わが社の歴史を生かし更なる発展をとおもいます。
受け継いだすべての事柄を引き続き、次代に伝承しょうと考えます。

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小さな町の社会教育委員活動
☆市川大門町について

わが町市川大門町は、山梨県の甲府盆地の最南端に位置し、笛吹川と釜無川が合流し、富士川となる所にあります。平成三年、夏の全国高等学校野球大会では、県立市川高校が活躍しました。当時、阿久悠が「ミラクル市川」という題で詩を作ったり、マスコミに「小さな県の小さな町の公立高校」との、フレーズで報道されたので、記憶にある方もあろうかと思います。この快挙は、監督や先生のご努力はもとより、少年野球からシニアなどで、小さい時から野球を愛する少年が多く育っていることが幸いしたと思います。また、市川大門町は、全国的に有名な花火の産地であるため、大会で勝ち進むたび、花火を揚げて町民に知らせ、祝います。もう一つの代表的な産業に千年の伝統を持つ和紙があり、徳川幕府の御用紙ともなりました。江戸時代(1764年)には代官所が置かれ、繁栄しました。町制になったのは、甲府に次ぎ県で二番目でしたが、現在では、過疎指定地域となり、人口は、11,833人となってしまいました。

☆市川大門町の社会教育委員会の内容

 市川大門町の社会教育委員の規定は、昭和39年に改定され、「社会教育に関し、教育長をへて教育委員会に助言するため、@社会教育に関する諸計画を立案し、A会議を開き、教育委員会の諮問に応じ、これに対し意見を述べ、また、B必要な研究調査を行なう。なお、社会教育委員は、教育委員会の会議に出席して、社会教育について意見を述べる事ができる。」と、あります。 この規定により、社会教育委員は、原則的に毎月一回会合を持ち教育委員会からの諮問を検討してきました。他町村では教員を退職した方が多いと聞くなか、当町では、会社経営者やサラリーマン、公民館活動の実践者、PTAの役員、私のような自主団体に所属する者などで、異業種異年齢の、12名で、全員の発言が得やすい構成になっていますので、それぞれの立場で取材して発言しています。

☆市川大門町の社会教育委員の活動

 これまでは、図書館のあり方や、学童保育の立ち上げ方や、学童保育の保護者の活動指導のあり方についてなどの諮問を検討し、教育委員会の施行に反映されています。
 今回の諮問は、「地域の教育力を高めるにはどうしたらよいか。」です。答申期間は、17ヶ月ですから、9ヶ月で問題点を掘り起こし、五ヶ月で解決策を検討。3ヶ月でまとめと、活動スケジュールを決めました。会議毎にテープで録音し、テープおこしをして、次の会合でチェックして行く方法をとっています。話題や提供資料は、前回に決めておいたり、委員が気づいたことを発表しています。異業種・異年齢、地域別の委員構成が功を奏して、話題に事欠かず、知らなかった情報を得る貴重な体験ができます。
 まだ、問題点を掘り起こす段階ですが、
@ 人材バンクの活用―コーディネーターの必要性
A 公民館活動―民俗的なまつりなどの掘り起こし
(子安神社の神楽の復興・一宮神社神輿の復興)
B 小学生の農業体験
(田植えや収穫時だけでなく、スローフード運動をふまえての土作り、種まき、草取り収穫まで定期的なものも)
C 地区公民館である大同公民館で行っている「あいさつ運動」
(敬老会で、この運動についての小学生の作文発表)
D 町をあげてのイベント「神明の花火大会」でのゴミ処理運動(20万人の人出)
E 講演会などのお知らせを地域の放送を使用可能に
F 子供の居場所作り(特に屋外、バスケットゴールの設置など)
G 「開かれた学校」に向けて
H 公民館・自主グループ活動の総会資料集めや取材で見えてくるもの
I 「社会教育委員としての心得」を作成し、委嘱後に勉強会をする
などです。今後は、これらをもとに検討を重ね、答申をだしていきます。
 
☆関連機関との連携について

 この他に、議長と副議長は、町内の中学校の「学校・家庭・地域連携推進協議会」にも参加します。この協議会は、14の委員会などから代表者が集まり、平成五年より、広報研修・環境整備・体験学習と部会が分かれ「きずな」の機関紙発行や、環境整備の花植えボランティア、ほうとうづくりを中学生と一緒にしてきました。
 今年は、山梨県社会教育連絡協議会の総会で、緊急動議された「声かけ、あいさつ運動」を私が紹介し、この会の一年の事業計画に加えられました。また、これが機関紙のテーマにもなりました。この運動は、数年前から中学校でも熱心に取り組んでおり、生徒会で7月の強調週間が予定されており、アンケートも取るので、その結果も機関紙に掲載することになっています。地域の方三名のあいさつの状況についての原稿も掲載予定です。

 市川大門町にある他の活動団体にも機会があれば、この運動を紹介し、町ぐるみの「あいさつ運動」になれば、市川大門町が住み良い、よい町になると思います。
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自主活動団体にアンケートを (市川社会福祉協議会)

 市川社会福祉協議会では、2月に町内の自主活動団体にむけてアンケートを採ったと聞きお話を伺いにおじゃましました。調査依頼団体は、152団体。回答は、108団体と70パーセント以上あったそうです。ボランティア団体23。自主団体85でした。自主団体のうち48がボランティア活動に参加できると答えているようです。総数71団体がボランティア活動ができるとは、市川大門町にとって心強い結果だったと、青柳二三男局長は話されていました。ボランティアのできる団体の種類としては、防災・お年寄りのサポート・子どもの情操教育・町づくり・文化活動・生活関係・スポーツ関係など多岐にわたります。ボランティア活動が、スムーズに、かつ有効、積極的にできるよう社会福祉協議会が主体的にコーディネートしていって下さるようです。また、団体の連絡協議会のようなものを立ち上げて、相互の関係が密接になるよう計画のようです。

 2年前に社会福祉協議会では、市川のボランティア講座の受講生等を募って、長野県の辰野町に視察研修したそうです。地域の人が中心となって活動しているボランティアセンターを訪問して、この施設が町づくりの原動力になっているのに深く感銘されたそうです。財政状況の悪い時代であり、また高齢社会、少子化、深刻な青少年問題、家庭崩壊、地域社会の変革など、難問が尽きない時だけに、行政だけでは町づくりが難しいため、地域の人が、何とか良い方向に向けたいと願う風潮を汲み取り、その思いを育てる方法を模索しているとのことでした。

 私たちの市川マップの会では、小学生を対象に四尾連湖キャンプをしたり、小学校の親子レクより町並みウォッチングの依頼があったり、国際交流協会からの依頼で、マスカティーンの方たちに市川の町を案内したり、渡辺青洲の講演会を開いたりしましたが、依頼の数が少なく、ボランティア活動が活発とは言えません。この企画が、動き出せば、会の活躍の場が広がると思います。これは、単に私たちの会だけではなく、他の団体も待ち望んでいることではないでしょうか。

 2002年から、下部町の文化協会で週休五日制のために、「下部ふれあい勉強会」が、毎週土曜日に行われています。太鼓・手芸・押し花・琴・俳句など生涯に渡った趣味を持てたら、一生の財産になると願がわれたからだそうです。このようなことも自主団体が、公民館や児童館などで先生となり、幼児から高校生までを対象して教室を作れば、子どもの居場所作りにもなり、異年代との交流が図れ、素晴らしいものになると思います。また、さらに地域の人もこれに参加できるようになれば、地域の人が、子どもとの交流もでき、「ふれあいの場」になると思います。

 ボランティア団体が、一堂に集まって多種多様な自分たちの活動披露することにより、グループ同士の交流も活発になり、より連帯を強めて、町づくりの一角を担う機関になりそうです。

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子育て支援       峡南地区地域教育推進会議
 3月16日に峡南地区地域教育推進会議が、南巨摩合同庁舎でありました。この会のメンバーは、南巨摩・西八代郡の教育委員会やPTA・社会教育委員・公民館・子どもクラブ・体育指導などの連絡委員会会長、青少年育成町民会議・カウンセラー。地域活動・子育て支援実践者、高校の生徒指導主事の先生です。会の趣旨は、子育てに関わる問題の深刻化を憂え、家庭、学校、地域の連帯を確かなものにして、子育て支援の組織の見直しと活性化することだそうです。青少年の問題が深刻化しているだけに出席率も良くメンバーの熱意を感じました。総会では、活動報告がされました。

  峡南地域教育推進担当の先生方は、平成11年より、中学生や高校生が、赤ちゃんとのふれあいのできる「あかちゃんだっこ体験」の実施をされ、思春期の女の子男の子に暖かいものが心に残る良い企画をされています。また、「かけはし」という情報誌を毎月発行し、青少年の問題提起をされたり、高校生活などの紹介をしています。2月には、公民館活性化推進事業の一環として、教育関係に関心のある高校生大学生に向けて、「ヤングプレイリーダー養成研修会」を実施し、市川高校生が多数参加し、子どもの「相談相手」「遊び仲間」となってもらうため、マジックやミニゲームを楽しませる方法を学びました。今後、大学生になり地域の公民館や学童保育、児童館で活動をしていただけたら大きな前進になると思います。

  総会後に山梨大学教育人間科学部の栗田真司先生の講演がありました。先生は、「子どもの遊び」「子どもの地域での活動」について研究を進められ、学生の指導に当たっておられます。また、県の関係では、「学びネット」や「キャンバスネットやまなし」の立ち上げなどにも関わっている先生です。「家庭、学校、地域の連帯を確かなものにするために」という題でした。1965年にユネスコの第三回成人教育推進国際委員会で、フランスのラングランが提唱したエディカシオン・ペルマナントを波多野完治が「社会教育の新しい方向」と訳して報告され、社会教育・生涯教育・学習への歴史的な歩みを話された後、地域活動の事例を紹介されました。

  京都の美山町では、人口が半減した際、住民が自主的に立ち上がり、日本一の田舎をづくりを目指して、伝統的建築物条例などを作り茅葺の屋根を奨励した。今では萱葺き屋根が日本で一番多い地域になっているだけでなく、ごく普通の田舎を打ち出したさまざまな地域活動が展開されているそうです。

  東北や長野県などを中心に子どもが少なくなった地域では、公民館を寮としたり里親制度によって、山村留学を実施しています。特別な事はせず普通の生活をすることを条件としてうまく起動されています。今では、この制度で育った人が、その地に住むようになり、人口増加につながっているケースもあります。

  静岡県の掛川市は、日本で初めて生涯学習の町と謳った町だそうです。「とはなにか学舎」を始めて、地域の人が、一つのことにかけて詳しく披露する町おこしが盛んだそうです。

  新潟県村上市は、町屋造りが多いのが有名なところで、青年会議所数人が、町屋商人会をつくり人づくり町づくり始める。人形様めぐり(お雛様)や屏風めぐりを始め、子どもが自慢できる町づくりを目指している話。

  石川県輪島は、輪島塗が下降気味で、短期・長期自然体験村を始めた。子どもだけでなく、見守る親もこの町を訪れるようになり、観光客が少なくなった旅館がこのために潤っているそうです。

  いろんな情報が聞け、聴衆も熱が入った有意義な講演でした。そして市川大門町散歩マップの主旨である、先人が長い間、地域を守り育ててきた足跡を伝えることが、『子どもが市川大門町を誇りに思ってくれる。』ことだと思いました。

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花園院の開山は慈恵大僧正

今月は平塩寺の過去帳が伝えられている花園院さんにお邪魔させて戴きました。

 市川の方から「おきょういん」と呼ばれ親しまれています。屋根が高くなだらかな勾配になっています。本堂へ入る入口が唐破風の屋根がついるのが珍しいものです。正面玄関から東側が本堂やお座敷で、西の方が庫裏となっています。正面玄関の奥は、十畳ほどの座敷で、奥が方丈の間その右が本堂となり、その隣が座敷と奥座敷になっています。奥座敷の出書院の板は厚いケヤキでいい色に磨かれています。ガラスの入った格子戸は、造りなおしたそうですが、趣があり違和感がありません。屋根はカヤ葺でしたのを昭和35年頃にトタンで覆っていましたが、昨年には銅板にされました。宝暦9年(1772)に建てられたそうですので、221年も経っていることになりますが、柱や建具にあまり歪みもなく、部屋に入る風にさわやかな香りがあります。手入れされたお庭にはとても深い井戸があります。平塩の丘の高いところに位置していますが、市川の町並で掘る井戸の水脈と同じ所まで届いていると言われています。

 市川大門町誌によりますと、花園院の開山は、慈恵大僧正(平塩山白雲寺の天台宗の開基)だそうです。中興の祖は菜食賢尊と謂れ、その後市川の生まれの暁善が村松与左衛門等の帰依により、寺宇を天正年間に再建します。貞享3年に現在の地に移りますが、焼失したため宝暦9年(1772)に建てられ現在に至っているそうです。

 現在の伊丹信匡住職は、34代だそうです。暁善住職を初代と数えられているそうです。明治の廃仏毀釈の影響もあり、一時無住の時もありました。その時期は福寿院さんが兼務されていたそうです。真言宗で、本尊はお釈迦様です。4月の8日前後の日曜日に花祭りのお祭りがあり、稚児行列が行われます。

 このお寺は、市川大門町の文化財である平塩山白雲寺の過去帳が保存されているのが有名です。過去帳は巻物で四巻からなっています。第一巻の最初に慈恵大僧正大和尚の名があり、安護院法印清覚、権少僧都平照、當寺文殊丸と続いています。白雲山平塩寺とも呼ばれており、行基の創ったとも謂れています。天台宗の時、「天台百坊」と、謂われてたくさんの支院を持ち、広い地域に勢力を持っていたようです。修業の場であり、学問僧がいてお経本が作られていたようです。夢窓国師は、少年時代、このお寺で修行なさっています。このような由緒あるお寺でありながら、何時、如何なる理由で廃寺になったのか確かでありません。しかし三昧堂、薬師堂は、廃寺になってもあったようです。薬師堂は、天正10年(1601)、甲府太田町一蓮寺へ売られたと記録にあります。その頃の里謡に「妻が欲しくは一条へござれ、一じょやくしはつま薬師」と、古跡の廃するのを歎き諷したそうです。

 過去帳の箱の中に「新霊回向法名帳」が5冊あり、表書きには慶応などの江戸時代の年号や三昧堂の名や薬王寺・金剛院・宝寿院などの当番寺などが書かれています。これは、昔から平塩寺の末寺が毎年九月に会合して、残跡にあった三昧堂において1、7日法事を営み、引声念仏の行事をした記録です。それを見せて戴きますと、近在の有力者がこの年に亡くなった供養にと、お金や米、反物等を寄進した記録が克明に残っており、当時の人々の暮し向きが伺えます。この法名帳はまだたくさんお蔵にあるということです。平塩寺の末寺といわれている市川一五ケ寺(真言宗に改宗)の一つであるこのお寺にこのような書物があるのは、開山したのが、同じ人だったからでしょうか。大きな疑問です。

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徳川幕府の朱印状 薬王寺                 甲斐国三十三番観音霊場第一番札所
甲斐百八霊場第九五番札所


今年の4月より始められた「甲斐西八代七福神めぐり」(真言宗)が評判を呼んでいます。今月は、その一つの三珠町上野にある薬王寺(小野芳幸住職)さんにお邪魔しました。

 芦川駅の南東に位置し、4、5分で行けます。こんもりとした木の右側に石の階段が現われ、坂を登り終えるとりっぱな鐘楼堂があります。それを潜ると2つの切り妻の建物が、L字形につながっている高い屋根の大きなお寺が見えます。左には、大きなケヤキの奥に県の文化財のオハツキイチョウがあります。目通り幹囲3.7mの巨木です。台風で幹が折れる被害にあって、樹勢が衰えてきているのが残念ですが、小さ目の葉がびっしりとついていますので、何年か後には勢いを取り戻すことと思います。
建物は、庫裏と客殿の繋がった所に唐破風の屋根がある正面玄関があります。上がりかまちが奥長で低く籠寄せになっています。その奥がケヤキの板の間で、その隣が対面の間で、庫裏の客間に当たるところです。その左が、寄付。そして土間で、入口になります。対面の間の奥が、方丈の間。その隣が、勝手になります。その奥に、什器などの収納場所や、納戸や浴室などになっています。客殿は、広間とその奥が持仏堂になっています。板間と広間を仕切っている板戸には虎や人物の絵が描かれております。右隣が、次の間で、この欄間は、鳳凰と、しゃちほこが彫られ、極彩色に色づけされています。次の間の奥は上段の間で檀家の方の位牌が安置されています。その右側に一段高くなっている二畳の御座所の間があります。御陽成天皇第八皇子良純親王が、5年間このお寺に居られたなごりの間だそうです。柱は、漆塗りのような艶があり、堅そうな年輪がつまった木です。ケヤキの違い棚も厚いものでできており、格子の障子の細工は、手の込んだもので幾何学模様がきれいです。当代になってから平成八年に萱葺きの屋根を銅葺きに葺き替えたり、御本尊毘沙門天(多聞天)や、不動明王の修復をされているそうです。現在も観音さんを修復に出しているそうです。

 このお寺は、天平18年(746)行基が多聞天像を刻み}り、観全僧都が開山された法相宗で、その後真言宗に改宗したそうです。源義清、武田伊豆守信重の帰依を受け寺領を寄進されたと伝えられています。信玄も他国へ出陣の折、初期の真言七談林の一つとして戦勝祈願を命じています。火災や無住の時もあり、中興の尊澄を一代と数えています。徳川家康が、市川平塩の文殊寺(お屋敷)に陣を張り、薬王寺を見て訪ねて来られた。武田信玄の祈祷場所であった事を知り、敵将でありながら尊敬していた武将であるので、安堵し、葵の御紋の入っていた器を下賜された。翌年にこの寺は徳川家から庇護され朱印状を戴くことになり、江戸時代250年間繁栄されたそうです。僧6名、俗11名、門前に男女41名の時もあったようです。

 現在の建物は、享保4年(1719年)から六年間かけて完成したそうです。現在には無い土蔵や臼屋なども造られたようです。一八世、桓龍僧都の時で、棟梁は、下山の文左ヱ門です。

 本堂と東照宮拝殿、観音堂があったのですが、現在は江戸時代の図面に描かれた図や戦前の面影を描かれた図で偲ぶだけになりました。観音堂は大真寺が廃寺となった為、十二面観音をこちらに納めたお堂で、明治18年に建てられたそうで、その時に寄進した斉木清右ヱ門のお家は、今でも「オカンノンサン」と呼ばれているそうです。

 良純親王は、甲斐の国に17年間流された方で、最後の5年間薬王寺で過ごされたそうです。幾つものお寓話があります。4月の第1日曜日に行われる「お神輿の川渡り」と関係のある方だそうです。表門神社から御崎神社へお神輿が出るので、宮様が、橋の上でご覧になられていた。すると宮様が居られるのを見て、恐れ多いと神輿を担ぐ人々が、川を渡ったのが始まりだそうです。また、宮様が住職と河内の慈眼寺に行かれる途中、落合の高まま地蔵の前を参拝し、高田の愛宕地蔵尊にも参じた。更に黒澤の座り地蔵に参じた時「御苦労であった。後は、黒澤の座り地蔵が案内してくれるから。」と、仰せられた。不思議に思い住職が訊ねると「これまで高まま地蔵と、愛宕地蔵が付いて来て下さった。」と、お袖を動かされると、お姿を見せられたそうです。また、ある時、親王が、縁先にお出になされて「ああ、今三枚橋の上で馬子がこぼした米を雀が啄んでいる。」と仰せられた。早速下僕が、行って見ると雀が群がって米を啄んでいたそうです。皇子の遺品として御位牌、御脇息、御硯、御丁寺風呂(お香入れ)、細焼物御菓子入などお寺に納められています。

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板屋さんは、富士川舟運の問屋


代々受け継がれている家シリーズで初めての町外、鰍沢町の「板屋さん」村松瑞穂さんを訪ねました。

 鰍沢橋のたもとを大木の方角10m進み、右に折れ50mほど行きますと、石の門柱があります。右に大きな二階建てのお蔵があり、左に母屋があります。お蔵の隣の道を進み車を止め、坂を上がっていきますと、母屋の正面に出ます。切妻造りの二階建ての大きなお家で、屋根がお寺のような急な傾斜で、二階部分も覆っています。二階は、裏、左右に窓が取られています。6つの続き部屋がある大きな間取りで、玄関、土間や台所が改装されています。座敷をL字型に囲む廊下は、真新しく見える白いケヤキの板で、少し傾斜に造られています。現在は、サッシの戸になっていますが、以前は雨戸で、ほとんど締めて大切にされていたそうです。奥座敷は、床の間と違い棚が広く取られた十畳間です。床の間のケヤキの板は、厚く広く長くそれは見事なものです。さすが板屋さんだと思いました。左に書院造りの明り取りは、細工の細かなもので、桟が折れずにしっかりしています。柱と梁の交差しているところには、花菱の細工の金具が打たれています。また、四つの襖に「履堂」と署名の入った漢詩が書かれています。奥さんは、「この意味がわかれば楽しいのに。」とおっしゃっていました。このお座敷は、子どもは滅多に入らず、大切にされていたようです。建物は古く、文化文政の頃のものだそうで、お蔵よりまだ富士川側に建てられていたそうです。水害に会い、明治五年に現在の高い所に移築されたようです。屋根は、カヤ葺きであったのをトタンで囲んでいましたが、現在は、瓦葺に見える金属に直したそうです。その際、カヤの表面数pのぞけば、新しいままの色だったそうです。また珍しいものに大黒柱と小黒さんの2本があり、大黒柱30p角と、小黒さん25pのケヤキの太いものです。障子は30本あり、張替えはご主人の係りだそうです。この度の禹の瀬の改修工事で、江戸時代に建てられたお蔵を3mほど上げられそうです。お蔵は、二階建てで大きく、壁もきれいに修復され、屋根も瓦が吹き替えられています。丸に二つ引きの紋が付けられたりっぱなものです。この改修工事前は、竹やぶで舟運時代の面影がある石垣が残っていたそうです。また、舟を繋いでいたという大きな榎の木も15年ほど前まであったようです。道も以前は河原沿いに上ってきたそうで、風景はずいぶん変わってきたようです。

 村松家は、一代目は卯兵衛さん、二代目は宇兵衛さん、三代目は祉祥さん、四代目は真治さん、五代目は良通さん、六代目は当代の瑞穂さんです。黒沢の宿「駿河屋」権次郎さんの分家から始まっています。お座敷の梁の上に槍が二本ありますので、名主だったろうと思われます。三代目の祉祥さんは、大同村の九代目の村長を明治42年にしています。ご主人は、先代より『問屋』をしていたと聞いていますが、板屋の由来は不確かだそうです。舟場のお年寄りに聞いたところでは、「板屋」は木材全般でなく、板になったものを商っていたことから来ているそうです。富士川舟運の問屋をしていたそうで、県内はもちろん、長野の方までの商いだったそうです。大きな商売をされ、さぞや繁盛されていたことでしょう。

 先月より黒沢河岸のことを調べ始めましたが、「富士川黒沢河岸」という題で、今村昭著の本に出会うことができました。この本に村松家のことが出て、「幕末のころ塩商いに関しての古文書に残る黒沢河岸の顔ぶれに、・・・・商人惣代、宇兵衛。」と、記されています。二代目の方は、塩も商っていたようです。

 この本には、河岸のことだけでなく縄文土器や黒澤口留番所、黒沢に係わる歴史も書かれていました。

 黒澤河岸は新川河口の上下にあり、下流は舟場にいたる富士川ぺりにあったと書かれていますので、舟場より板屋さんまでに続く石垣がある部分のようです。黒澤河岸の船は、舳先が黒く塗られていたそうです。

 下りは、富士川河口岩淵まで、御廻米三十二俵積み一艘金二分だったようで、帰りは、大豆、塩、魚類、藍玉、楮、三椏、金物、畳表など持ってきたようです。石和代官所の支配下の貢米を扱っていました。下りは、1日。帰りは4、5日かったようです。船は、「高瀬船」で、長さ13、6m。一つの船を動かす人は、平均4人。船の数の変遷は、1705年53艘、1724年79艘、1881年(明治14年)268艘、中央線開通まで隆盛を極めたようです。

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上・塩屋 黒沢河岸 望月清右ヱ


 
統一選挙終盤で、町長選、町会議員選という、合併前の大事な選挙が始まろうとしています。地域の形が変わろうとしている今、どのような選択がなされるか、一票の重みを感じます。前回の合併で、旧大同村が、住民投票や議論を重ね、昭和31年9月30日に鰍沢町に羽鹿島、舟莚地区、後は市川大門町と決定しました。しかし、昭和33年1月に駅前の一部と舟場