PUBLISHED 1987


邦文堂だよりは今年で、22年目を迎えます。
継続することの大切さのなかで、大きな節目を迎えようとしています。
昭和62年6月1日(西暦1987)第1号を発行しました。
創刊号は、B4版一枚の手書きのおたよりでした。

市川大門の有形・無形の文化財、道端の道祖神、代々伝わる家、古木。
市川大門のすばらしさを情報発信しよう!!
次世代の若い世代に市川大門の文化を伝承させよう。

お客様とコミニュケーションを取ろう!!
お客様のお役に立ちたい。
お客様に喜んでいただきたい。
お客様の事をもっと知りたい。
そんな関わり合いを積極的に展開できたら…
こんな想いで、邦文堂だよりはインターネットにリンクしました。




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邦文堂だより

 平成30年5月号 『国際交流の大切さ』 イアン・ヒルマン(米国大使館))

 平成30年4月号 平塩山由緒の縁起

 平成30年3月号 智感版の『大般若経』

 平成30年2月号 織田信長の天下構想 五味文彦先生

 平成30年1月号 新年のご挨拶

 平成29年12月号 運慶興福寺中金堂再建記念特別展

 平成29年11月号 笛吹・薪能 観世流・梅若玄祥先生

  平成29年10月号 第8回『だから、わたしはこのまちが好きです。』

 平成29年9月号 五味文彦先生の歴史講座

 平成29年8月号 透明でスベスベ・黄金の湯 秘境・梅が島温泉

  平成29年7月号 教育の根本は愛・家庭教育

  平成29年6月号  ジョン万次郎をNHK大河ドラマに

  平成29年5月号 能楽の世界〜観世流・佐久間二郎先生〜

  平成29年4月号 狂言・野村萬斎・ますほ

 平成29年3月号 RICOH 交響楽団第61回演奏会

 平成29年2月号 沼津市の深海魚水族館

 平成29年1月号 新年のご挨拶

 平成28年12月号 八代目中村芝翫襲名披露

 平成28年11月号 「Japan wine competition」 2016日本ワインコンクール

  平成28年度10月号第7回『だから、わたしはこのまちがすきです。』

 平成28年9月号『AED』 救える命があります。

  平成28年8月号RICOH 交響楽団第60回演奏会  シューベルト交響曲 第8番

 平成28年7月号『世界遺産としての富士山の価値』 山梨県福祉保健部長市川満氏講演

 平成28年6月号『第20回ミニバスケットボール大会 市川大門三珠ライオンズクラブ杯』

 平成28年5月号 『日本家屋でフレンチを』

 平成28年4月号 『旧二葉屋酒造 こけらおとし』

  平成28年3月『身延山大学 創立20周年式典』

  平成28年2月 『義肢・装具製作所 スズキブレース OPEN』

 平成28年1月 『謹賀新年』 新年のご挨拶

 平成27年12月 「旧二葉屋酒造」酒蔵改装

 平成27年11月 統一奉仕デイ ライオンズクラブ国際協会

  平成27年10月号 第6回『だから、わたしはこのまちがすきです。』

 平成27年9月号 歌舞伎座 勘九郎、七之助の名演技

 平成27年8月号 お手軽 善光寺・上高地散策

 平成27年7月号 一般財団法人 ハウジング&コミュニティ財団 助成対象財団指定

 平成27年6月号 晴耕雨読『旧二葉屋酒造』

 平成27年5月号 『能楽・体験講座』 佐久間 二郎先生

  平成27年4月号 ISO27001 情報セキュリティへの取り組み

  平成27年3月号『常夜燈』 江戸の灯り 蘇る

  平成27年2月号 『切り絵の世界』 鈴木賢二 氏

 平成27年1月号 謹賀新年

 平成26年12月号 金澤八景の称名寺

  平成26年11月号 第5回「だから、私はこのまちが好きです。」町立市川小学校

 平成26年10月号 「第6回まちづくりフォーラム」 五味文彦先生講演 市川マップの会

 平成26年9月号 「ISMS/ISO27001」を取得して

  平成26年8月号 しらいみちよ 東日本大震災チャリティーライブ

  平成26年7月号 はくばく 長澤利久会長 講演

 平成26年6月号 東京駅・周辺ガイドの巻

  平成26年5月号 ISMS/ISO27001 認証取得

  平成26年4月号 NHK交響楽団甲府講演・2014

 平成26年3月号 富士山 五合目 お中道

  平成26年2月号 国指定重要文化財 門西家

 平成26年1月号  「謹賀新年」 A HAPPY NEW YEAR2014

 平成25年12月号 『市川三郷に共に住むRe:Sharing Ichikawamisato』

  平成25年11月号 第4回『だから、わたしはこのまちが好きです。』入賞者伊藤さんからのお手紙』

  平成25年10月号 第4回『だから、わたしはこのまちが好きです。』

  平成25年9月号 大門村、安政4年古地図

 平成25年8月号 市川の花火

 平成25年7月号 印傳屋 上原勇七会長講演

 平成25年6月号 富士講 大寄友衛門

 平成25年5月号 国文祭 五味文彦先生 講演

 平成25年4月号 夢窓国師と平塩寺3

 平成25年3月号 夢窓国師と平塩寺2

 平成25年2月号 夢窓国師と平塩寺

 平成25年1月号 謹賀新年

 平成24年12月号 五重の塔と富士山

 平成24年11月号 『インカ帝国展』 マチュピチュ発見100年

 平成24年10月号 第3回 「だから、わたしはこのまちが好きです。」Photoコンテスト

 平成24年9月号 イギリスの湖水地方の旅

 平成24年8月号 『第300号記念座談会』

 平成24年7月号 『祝・第300号発刊』 歴史作家 江宮隆之氏

 平成24年6月号 第16回ミニバスケットボール大会 市川大門三珠ライオンズクラブ杯

 平成24年5月号 『能楽・入門講座 花のみちしるべ』 シテ方 佐久間二郎先生

 平成24年4月号 ドキュメンタリー映画 『きょうを守る』

 平成24年3月号 「道〜白磁の人〜」 浅川巧 生誕120年記念映画試写会

 平成24年2月号 The long journey has just began. 『はやぶさ』遥かなる帰還

 平成24年1月号『謹賀新年 新年のご挨拶』

 平成23年12月号『祖廟輪番給仕・身延山久遠寺』

 平成23年11月号『蕎麦打ち教室 つくたべかん』

 平成23年10月号『第2回 だから、私はこのまちがすきです。』

 平成23年9月号 『マスカッテーン使節団』

 平成23年8月号 『登録有形文化財』 旧二葉屋酒造

 平成23年7月号 五味文彦先生

 平成23年6月号 『白磁の人』 浅川巧の生き方

 平成23年5月号 『能楽入門講座』

 平成23年4月号 『二葉屋』

 平成23年3月号 『一二神将・奈良 新薬師寺』

 平成23年2月号 二葉屋で保存活動の一環

 平成23年1月号 『新年のご挨拶』

 平成22年12月号 『甲州財閥物語』 山梨中銀金融資料館・後援会

 平成22年11月号 『帰敬式・おかみそり』 京都・東本願寺

 平成22年10月号 『だから、私はこのまちがすきです。』フォトコンテスト

 平成22年9月号 市川三郷町の年譜から その2

 平成22年8月号 市川三郷町の年譜から その1

 平成22年7月号 『県政の概要』 〜小沼副知事〜

 平成22年6月号 NPO 山梨家並保存会のお陰で

 平成22年5月号 依田孝の生家は酒造業

 平成22年4月号 二葉屋を登録文化財に

 平成22年3月号  新時代を読み取るキーワード

 平成22年2月号 風さそう 花よりもなお我は

 平成22.年1月号 新年のご挨拶

 平成21年12月号 『十鐘山房印挙』 六郷印章資料館

 平成21年11月号 『太々神楽』 四尾連湖子安神社

 平成21年10月号 『水と緑を考える』 産学官シンポ

 平成21年9月号 『夢窓国師 臨川寺』

 平成21年8月号 『出張パソコン教室』開催中!

 平成21年7月号 『これからどうする?』 山梨県立大学新学長 伊藤洋先生

 平成21年6月号 暮らし易い古民家に

 平成21年5月号 京都の夜桜

 平成21年4月号 まぼろしの平塩寺A

 平成21年3月号 中山 法華経寺 大荒行

 平成21年2月号 まぼろしの平塩寺

 平成21年1月号 平成21年 新年のご挨拶

 平成20年12月号 高原会さまにおじゃましまーす!

 平成20年11月号 第3回地域貢献表彰 甲府商工会議所

 平成20年10月号 市川大門町並みウォッチングの脚本

 平成20年9月号 鑑真展平成の大修理記念展 〜静岡県立美術館7/12〜8/31〜

 平成20年8月号 鰍沢法人会 NPO 富士川・夢・未来 〜町並みウォッチングを市川で〜

 平成20年7月号 「黄金の国 ジパング」 谷口一夫館長

 平成20年6月号 中小企業大学・中小企業実習生

 平成20年5月号 親父が教えてくれたこと

 平成20年4月号 明日のライオンズを考える

平成20年3月号 「国際観光の新たなビジョン」 山梨県立大学国際観光特別講座

 平成20年2月号 お詫び リコーリサイクル用紙のお詫びと対応について

 平成19年12月号 つみきって楽しい「楽つみ木」

 平成19年11月号 よみがえるか、甲府中心街

 平成19年10月号 まぼろしの平塩寺

 平成19年9月号 トヨタの未来者 「i-unit」

 平成19年8月号 ハックルベリー・フィンの冒険

 平成19年7月号 やっぱり本物はすごい 

 平成19年5月号 ひさびさのたまに行くなら、こんな店♪

 平成19年4月号 躍動するカワセミの写真 廣瀬博

 平成19年3月号 文化財は人間形成に活用

 平成19年2月号 文化庁の江面先生の講演

 平成19年1月号 2007年新年挨拶

 平成18年9月号

 平成18年7月号 清里の観光カリスマ 舩木 上次

  平成18年6月号 清里フィールドバレエ

 平成18年2月号  パソコンちょっと一言/山梨に夜間中学を

 
平成17年12月号 市川大門町町並ウォッチングパート・2

 
平成17年10月号 市川大門町中央部町並みウォッチングパート・1

 
平成17年6月号 「日本人の忘れ物」 

 平成17年5月号 ついに市川大門散歩マップパート2完成!

 平成17年3月号 ライオンズ広報誌に「青洲文庫」渡辺青洲の里を紹介 

 平成17年1月号 梨大生の卒論に市川大門町の水路  

 平成16年9月号 浜名湖花博

 平成16年8月号 おかげさまで創業100周年 

 平成16年7月号 小さな町の社会教育委員活動

 平成16年5月号 自主活動団体にアンケートを (市川大門町社会福祉協議会)  

 平成16年4月号 子育て支援 峡南地区地域教育推進会議  

 平成15年10月号 花園院の開山は慈恵大僧正  

 平成15年8月号 徳川幕府の朱印状 薬王寺  

 平成15年6月号 板屋さんは、富士川舟運の問屋 

 平成15年5月号 上・塩屋 黒沢河岸 望月清上 

 平成15年4月号 池川家は三代に渡り「目薬製造」   

 平成15年2月号 寛政年間のお蔵のお寺・福寿院 

 平成14年12月号 創業は安政の魚屋 「扇屋さん」 



 

 清里の「萌木の村」の舩木上次さんが
             県立大学で講義をしました。


 
舩木さんのお父さんは、八十数年前、小河内ダムに沈んだ小菅村から清里に移り開拓した方だそうです。
開拓農業は、苦難の連続でしたが、困った時手を差し伸べ合う共同体だったそうです。最初の収穫の蕎麦は、実が三粒しかつかず、「線香そば」と呼ばれました。その三つぶの粒は、「一粒は来年の種に、一粒は自分で食べ、一粒は人様のもてなしに使へ」と、決めたそうです。今でもこの言葉は、大切に伝わっています。
 戦後、清里に、ポールラッシュ博士が、草の根民主主義を根づかせ、豊かな生活ができるモデル事業を起こそうとします。山梨県から三百万平方メートルの土地を借りて、酪農の指導をされたそうです。
 そして、舩木さんのお父さんも、ここの牧場頭で活躍されました。
 その後、清里は、風光明媚の場所であり、外国風の建物も点在し、広い農場にジャージー牛がのんびり牧草を反芻している様子など、異国情緒があり、観光スポットになっていきます。その風景を愛する人たちがペンションを建て、移り住んできます。また、地元の方たちは民宿を始めます。どちらも素人経営ですが、ペンションの経営者は、コンサルタントの教育を受けてきます。
 宿泊施設が飽和状態になると、地元の方たちの民宿が経営が成り立たず、清里を去って行くという残念な現象が起きます。そして、清里はミニ原宿のような感じを受けるようになり、若者の闊歩するところとなります。
 舩木さんは、このような清里になる前、一九七二年に清里で初めての喫茶店ロックを始めます。まだ当時は、甲府にもないような木目の際立つ店内に、ロックやジャズが響き、しゃれた気分になれると、当時の若者に好評を博しました。その後、「萌木の村」を造り、オルゴール館を造り一躍脚光を浴びます。最近の舩木さんには、全国各地から講演の依頼が来て、全国の町づくりの方との接触があり、さらに多くのアイデアを持っていきます。この頃からドイツと清里の子どもとのホームスティを始めます。一九九〇年から、清里でフィールドバレエの公演を初め、二〇〇二年、ちいき経済賞「ふるさとスプリット賞」を受賞し、二〇〇三年、観光カリスマ(第二回)に選ばれました。本物指向で、エネルギッシュな舩木さんは、留まる気配はありません。清里が、どんな観光地になるのがいいのか、舩木さんの胸には青写真がありそうです。清里の明日が見落せません。

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清里フィールドバレエ


恒例の清里の「萌木の村」でフィールドバレエの公演の紹介です。
おやゆび姫・
くるみ割り人形
天上の詩
     エメラルドシート      一万円
    クローバルシート   五〇〇〇円
    フリーシート     四五〇〇円
        小人      二五〇〇円
    前売券         四〇〇〇円
        小人      二〇〇〇円
七月二十七日(木)から
 八月九日(水)  (八月二日休演)
開場   午後七時
開演   午後八時
清里高原 萌木の村 特設野外劇場
問合せ先 〇五五一ー四八ー三五二二

みさとSundayカフェ&ギャラリー
市川三郷の会では、毎週日曜日に、カフェ&ギャラリーを始めました。場所は、碑林公園の南の楽園葡萄酒です。市川三郷の会は、市川三郷町に住む芸術やものづくりをされているが中心になっています。去年の十一月に大盛況を博した市川三郷祭りの主催者で有名です。しっとりした気分を味わうのには最適です。

創業百周年の記念誌
ー市川大門散歩マップ2副読本
邦文堂の百周年を記念して、市川大門散歩マップパート2の副読本を作りましたが、山梨日日新聞に載ったため、問い合わせが多く、製本に追われています。お申し込まれれば、少し遅れますが、必ずお届けしますので、お待ちください。
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パソコンちょっと一言 メモリーの話

最近パソコンの動作が遅くなったと感じたことはありませんか?
新しくウイルスソフトをインストールした、Windows XPをサービスパック2にバージョンアップしたなど…..
メモリーを増設してみませんか?パソコンの処理量が増加した際、メモリー容量が少ない場合動作に時間がかかります。
メモリーとはパソコン内部に設置されている基盤のことで増設して処理量を上げることができます。 起動時に時間がかかる。処理中に止まってしまうなどストレスに感じるようでしたら、お手持ちのパソコンのメーカ型番など型番などお調べのうえ弊社担当営業まで連絡お願いします。


山梨に夜間中学を                  

十二月に、オアシスの山崎俊二さんの講演を聴く機会を得ました。
 オアシスは、「外国人が、この国で困っている事があれば、手助けをしたい。」という福祉関係者、宗教者、市民活動者を中心に設立されたボランティアの山梨県内の組織だそうです。
 活動は、労働関係のトラブルでの行政や司法関係の手伝い。医療や健康保険の問題。子どもの教育。日本語の教室。生活上の問題など、多岐にわたります。また、外国人の人権を守るため、フォーラム、講演会、相談会、法律の改正運動も行っているようです。山梨は、神奈川県や東京都等のいろんな団体等から支援を受けて、一九九二年に立ち上がったそうです。
 講演では、山崎さんが、売春強要や、暴力などで身柄を拘束されている人の要請による救出劇や、外国人の相談の傾向の話をしてくれました。また、外国人の方とのたのしい交流風景などもありました。
 今年になり、オアシスで、子ども会があるからと聞いて、十九日(木)にお邪魔しました。
お部屋は、家庭的な雰囲気で、カーペットが敷かれ、机と椅子がたくさん並んでいます。子どもは、明るく楽しそうに、ボランティアで来ている梨大生や都留文生に、マンツーマンで教えてもらっていました。十数人の子どもは、小学低学年から高校生まででした。高学年の子が、騒いでいるのを見て、山崎さんは、「今日は、子ども会だから勉強しなくてもしょうがないか。」と、ニコニコしていました。
 山崎さんが勉強家のA君を紹介してくれました。山崎さんの話しでは、彼はがんばっているが、日本で学力を付けるのは難しいこと。問題はすべて日本語で、書かれているので、問題を解く前に、何についての質問かをまず読み、それを頭の中で母国語に直し、考え答えを導き、それを日本語に直すので、なかなか、高得点を取れないと教えてくれました。
 人の思考していく行為は、言語で突き詰めてくので、一つの言語に精通していなければ、考えが深く及びません。
会話ができても、成績には直接結びつかないようです。そこで学習言語が大事になっていきます。できれば、母国語で学習できる学校が望まれますが、なかなか実現は難しいようです。山崎さんは、中国語、韓国語、スペイン語、ポルトガル語の四ヶ国語の授業があればいいと考えているようです。
また、子どもたちにも聞くと、今の県教育委員会のサポート体制は、日本語の教師一人が数校の学校を持ち、日本語を教えていますが、基本をマスターするまでで、それ以降はサポートできない制度のようでした。私は、その後様々な授業で分からないところなどの質問を受け付けるシステムが必要なことと、母国語が使える授業も少しでもあれば、子どもにとってリフレッシュできる大きな支えになるのではないかと感じました。
 もうひとつ望まれるのは、夜間中学だと、山崎さんは話していました。今残念ながら、山梨にはありません。中学卒業は、就職、高校進学にとって、キーとなります。夜間中学のシステムでは、日本語のみの授業でも、学力はつくようです。この方法は実現の可能性が高いので、早く、山梨にも誕生すればと願っています。
 ペルー人のスペイン語の通訳の方と知り合えました。勉強家で自慢の娘さんがいるそうですが、「娘はスペイン語が得意でないし、私も深く日本語が話せないので、三十から三十五パーセントぐらいしか分かり合えない。また、子どもに勉強を教えてやりたくても教えられない。」と、親としての悩みを話してくれました。山崎さんのお話では、必ず子どもが母国語を否定する時期があるのだと話していました。そして、学校の三者面談でも、子どもが先生の言葉を通訳することになるので、親が先生に子どものことについての悩みを尋ねることはできないようです。ほとんどの子が、自分で進路を決めるのが現実のようです。
ただいま、オアシスでは、会員を募集しています。
 個人会員 年間 一二〇〇〇円
 団体会員 一口 一〇〇〇〇円
 賛助会員 一口 二〇〇〇〇円  
甲府市愛宕町一四七ー二
電話 〇五五ー二五二ー一二四四
山梨外国人人権ネットワーク・オアシスメールアドレス
yamanashi_oasis@yahoo.co.jp
ホームページ:
http://yamanashi-oasis.seesaa.net/ システム課リーダー保坂 宏紀
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市川大門町並みウオッチング パート2

十一月二十日(日)に八幡公民館主催の町並みウオッチングが、行なわれました。
 九時三十分に八幡公民館に集合しました。二十名ほどの参加で、市川の中心部の一部を訪ね歩きました。

十月号続き青柳義人先生宅からガイドの要点をまとめて紹介します。

 *青柳義人先生宅
 二階建ての蔵座敷で、入り口の扉は今でも開け閉めできます。
大正十年頃の建物で、宝珠院の鐘楼を建築した大野大工さんが建てました。
 建てられた当時は、呉服店でしたので、高価な反物を置いたり、客間として使われていました。
戦後、住まいとしたため、台所などを足されました。
 外壁は、一瀬治三郎さんが、手の平で仕上げた名人芸で、鏡のようにつややかで、人の姿が映ったそうです。
ご長男が、昭和五十六年、卒論に市川のお蔵の調査をしたところ二百十九軒あり、各蔵について三十項目調べ上げました。
 平成六年、私の調べで百八十二軒でした。

 *市川教会 登録有形文化財
 明治三十年の建物。叶屋、渡辺沢次郎氏が敷地と建築費を献納。会員有志の献金を加え建てられた。
 お蔵を思わせる厚壁に、瓦葺。石積みの上に建てられています。市川幼稚園も大正十三年に造られた。
山梨のキリスト教伝道は、シーエス・イビーが伝道師で南部町に来たのが最初です。市川には、明治十五年村松義則氏(一丁目松田屋)宅で伝道集会が開かれたのが始まりです。

 *丹頂堂印刷
 市川一の美しい千本格子と謂われている木造二階建ての母屋の隣に二階建てのお蔵が続いています。大寄又左衛門氏が明治の初め頃に建てました。昭和十六年に製糸業が不振に陥り、丹波屋さんが買い取り、四丁目から移られました。
 丹波屋さんは、古くから紙の販売を生業にしていた名家です。 千本格子は、厚いケヤキの板で支えられています。
 大戸は一間あり、九十度の回転式です。中庭には水路が通っており防火を兼ねた池があり、かつては、この水路が台所にも通っていました。

 *村松嘉世子宅
 明治二十八年の建築。一階は木造、二階はお蔵造り。今では珍しい二間もある籠寄せの正面玄関は、結婚式の正客さんと、たな経をあげられるお坊さんと限られています。引き戸となっている大戸は現在も使える状態です。
庭に石造りの水路があります。

 *福寿院 正和二年(一三一三)
 寛政二年(一七九〇)に建てられました。梁間十一間、桁間六間四尺の平屋造り。雨戸の引戸も土壁が塗られています。廊下は、一間のケヤキ板。観音開きの大きな戸が東にあります。七間で、上段の間、角の間、本堂、本堂の続きの間、書院の間、広間が二つ。本堂の柱に菊の飾りがついています。千二百余年前は、平塩の岡の平塩寺の支院で、碑林公園の東側にあったようです。現在地には、貞和二年(一三四六)真言宗法印源秀僧正によって移られました。ご本尊は、毘沙門天。
 東山天皇の弟にあたる伏見宮邦永親王直筆「高学山」「愛宕山大権現」の額二つ、大納言の藤原其時卿、其の子の基輔卿の位牌。坐光寺南屏の篆刻があります。境内に一七一六年の建築、地蔵堂があります。
 しだれ桜は、夜桜が見れるようライトアップします。


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市川大門町中央部町並みウオッチング パート1

九月二十四日(土)に県の博物館に収蔵したゆかりの地を歩く、つなぐNPO「まちミュー」の主催で、第二弾の町並みウオッチングが、行なわれました。
 十時に市川本町駅に集合しました。三十名ほどの参加で、午前中、市川の中心部の一部を訪ね歩き、午後より、碑林公園や平塩の岡の名所旧跡を訪ね、その後、増穂町の「酒蔵ギャラリー六斎」を訪れます。
 市川マップの会では、午前中の中心部の案内を引き受け、「山梨の桜」で有名な村松正人さんが、ガイドをしました。
 本町駅の構内で、市川マップの会の会長の一瀬茂さんが、歓迎の挨拶をし、村松さんが紹介され、ガイドが始まりました。
ガイドの要点をまとめて紹介します。
 *保泉の道祖神
道祖神とは、さえのかみとも呼ばれ、地域の仲間の生活を守るため、道を守り、邪霊・悪鬼の類が立ち入らぬように置かれたもので、また、子孫繁栄のための願いもこめられているともいわれています。  
 現在 市川大門町には四十箇所以上あり、なかでも双体道祖神が多いところです。造立年月日が、刻まれたものが少なく、帯那の石原健造さん前の物が天明二年正月十四日(一七八二)で最古で、七丁目の円立寺の天明七年、五丁目出口十字路の文化五年(一八〇五)一丁目御崎神社前の文政八年(一八二五)等があります。この他に、自然石、角石等に道祖神と刻まれたもの、石祠・道祖神場もあります。(青柳寅男氏著他参考)

 *宝寿院
 山門・・・・安永の頃寺に住んでいた源二という六部が数年托鉢した浄財で、寺へのお礼に天明の始めに建立したといいます。(廻木忠造氏著)
 木喰観正の石碑・・・(木喰とは、雑穀類を火を通さず食す修行した僧の意。)文政二年に同院に入寺され、多くの病人や迷える人々を救い徳を施したそうです。町内に観正自筆の「南無阿弥陀仏」が保存されています。(廻木忠造氏著)
 鐘楼・・・・明治時代に再建された。鐘は、享保五年(一七二〇)に甲府横澤住小田切佐次兵衛毘近・雨宮佐次右衛門規泰によって墓地の西方で鋳られ、郡中の善男善女が金銀を投げ入れたと言い伝えられていますが、他の所で鋳られたとの説もあります。(中倉茂氏著他)
 夢窓国師によって造築されたという庭園・・・園内にコノテガシワ・アララギの二樹と共に町の指定文化財、天然記念物に指定(昭和四十八年)されている。
 業計・・・・キリスト受難の図ともいわれた事がありましたが、今は、死後、生前の行いの業を計る図、「倒懸」の苦しみの絵といわれている。北野天満宮所蔵「北野天神縁起」や六道絵と称する絵の中にも出ているそうです。(青柳寅男氏著参考)
 秋山家の電燈のある墓・・・秋山喜蔵氏に甲府電力鰍謔闔R梨初の芦川第一発電所を造った偉業を称えて永久に灯すために建てられた電燈。甲府電力鰍ェ東京電力になり現在、灯されていません。

 *福金楼 登録有形文化財。
明治二十四年創業の老舗料亭。現在は、京料理、先代は鰻が有名。中線の場所より、昭和十一年(一九三六)身延線開通時に向け市川本町駅前である現在地に移転しました。グンゼ工場の設計者に設計を依頼。L字形の二階建。二つの大広間や赤白檀の床柱、釣鐘形にくり抜かれた壁に冨士山や帆立の小さな舟が細工されている障子の建具がはめ込まれており凝った造りです。

*市川陣屋 県史蹟指定 大正一三年
市川代官所跡。今は正門を残すのみ。門は、以前、前の道路を西に十数m、(古倉の通りの始まりになる)道をまたぐように建っていました。
明和元年代官の出張所となり、寛政年中に本陣となりました。代官の居間、手附、手代取締公事方(裁判)など堂々としたものでした。明治維新後、役所に変わり、土地の一部は学校や町役場で使用。昭和九年、小学校、役場が移転のちに宅地道路となりました。
 *ひやを歩く
ひやとは、左右に屋根がある、軒の下の狭い私道をいってますが。今木屋さんの大きなお倉があった「倉庫のひや」と呼ばれた広めの道の事もいわれています。日のささないひやっとする道が多いといえます。
次回は、青柳義人先生宅から紹介します。

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「日本人の忘れもの」 五木 寛之 氏講演

 6月13日(月)山梨中央銀行講演会で五木寛之氏の「日本人が忘れたもの」
と題した講演を聴きました。日本人の忘れてしまった「愁い」をテーマに語られました。
「蓮如」「大河の一滴」「他力」「日本人のこころ」など代表作があり、1981年より
休筆、京都・龍谷大学において仏教史を学ぶ、1985年より執筆を再開し
現代、直木賞などの選考委員などを務められているそうです。
 現在の病んでいる日本の時代を適確に捉え話し方にも気負いもなく
解り易い語り口の講演でした。
今の日本は、年間3万人の自殺者があり、非常に切ないことです。日本人の心のあり方を探る話でした。
 「やって出来ないことはない。」という前に、前に出てゆく姿勢と、「萎える心」
どうにも自分の心を捉えて放さない、萎えて生気を失う姿勢がある。
健全だけでは無い、暗く心が萎えることが時として大切ではなかろうか、と話されました。
 中国の唐の時代「暗愁」と言うことばがあり、愁いはいつも人の心の中に住み着いている。
その事を大切にして生きてゆく。と言うことだそうです。日本人も親鸞の「心萎え、号泣せよ。」と明言し、明治維新から大正時代、森鴎外・夏目漱石などの文化人が
宝のように大切に使って来た。
明治に富国強兵を唱え、明るさ・前向き・軽妙・力強さばかりで、「暗愁」は戦争・戦後と何処かに置き去りにし、失われてきた。一日には晴れた日も曇りの日もある、一日の内に幾度と無く人の心を「暗愁」が現れたり、引っ込んだりしているはずです。
その事を無視すると、大切な選択のときに進むべき道を誤ってしまう恐れがあります。
韓国にも「悒恨」ユウハンと言う言葉があり、感動の跡に裏寂しさがあり、その事を理解することが君子の感動の仕方である。「悒恨」ユウハンは韓国の国民的感情で津波のように繰り返し起こる困難をため息をついて乗り越える知恵であります。「恨晴」はんはれ、「トスカ」
憂鬱な愁い、魂の奥に「トスカ」に獲り付かれ人間は生まれながらにして、「フサギ虫・トスカ」を持っていて、その虫が、いつも心の中に住んでいる。現在の日本は愁いを忘れ、愁いを性悪説としてきた、悲しくなくことを女々しいと否定してきた。捉えて放さない「トスカ・フサギ虫」
の存在を、心の扉を開くことが大切です。「フサギ虫」を否定するのではなく、心萎えることを素直に受け入れ、巨大な「暗愁」に捉えたれても、自殺などの道を選ばず、生きる力拠りどころとして、自分をジット見つめる大切さを再認識する時である。と講演なされました。
子どもを含め、悲惨な事件が相次ぎ、日本人の心が「暗愁」に囲まれ、そのフサギ虫
真正面から立ち向かうことにより、忘れてしまった心の愁を見つめ直して行くことにより五木寛之氏が複雑な現代社会において、進むべき道を指示されました。

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ついに、市川大門散歩マップパート2完成!!

市川マップの会では3月に市川大門町や市川商工会の依頼を受け「市川大門散歩マップ」パート2を編集しました。B二判厚めの薄茶色の紙に黒と青の印刷です。B五判に折りたたんで、持ちやすいものになっています。
 宝寿院の鐘楼が桜の花に囲まれた画が表紙になっています。有泉行尾さんの作品です。広げると表紙の下に御陣屋が描かれており、もともとあった場所の懐かしい情景の画です。中央には、市川の中央部の道の地図に名所旧跡、道祖神、代々受け継がれているお家、山梨大学の学生さんが平成14年8月に調べた水路が描かれています。その廻りを取り囲むように画が並べられています。上の段から宝寿院、花園院、福寿院、円立寺、右には、禅林寺、碑林公園、JR市川大門駅、JR市川本町、下の段には、近江屋さん、扇屋さん、清水屋さん、村松嘉代子邸、村松久次邸とあります。どれも、有泉行尾さんと、青柳好美さんがその場に行って描かれた、朝の日を浴びて描かれたようなすがすがしい作品が並べられています。
 裏は、今村均さんが精密に描かれた作品で埋まっています。中央部にニ孝さんの屋上から南に180度見渡した、市川の家並みと、正体山や帯那峠、城山、万松山などの山波が描かれています。上の段は市川教会、丹頂堂印刷さん、川口屋さん、一瀬亮次邸、二葉屋さん、下の段には、風情ある市川大門の佇まいを含めて描かれた秋山亮邸、青柳義人邸、福金樓さんと線描が浮立つ見ごたえのある画が並んでいます。
 今回のマップの編集や画を描くのに本格的に取り組んだのは、短期間でやらなければならない事情だっため、産みの苦しみを味わいました。特に絵を担当された有泉さん、今村さん、青柳さんは、寝る間を惜しんでの作業でした。
 この度は、市川の中央部のマップをとの依頼でしたので、市川には、まだまだたくさんの名所旧跡があり、絞り込むことが大変な作業でした。いろいろ意見はあったのですが、依頼に添って吟味して選び、範囲を市川の中央部と限り、役場、碑林公園のみ加えることにしました。市川の良さが見た方に分かってもらうこと。また、町の方々や次世代を担う子どもが町に愛着をもってもらえるようにと願って作りました。市川大門町は、今年の10月に合併するわけですが、市川らしい風景を何時までも伝えるマップができたと思っています。
 

 4月28日に市川大門散歩マップパート2の発行パーティーをしました。市川大門町長、マップに掲載された建物の持ち主、山梨大学大山先生ほか学生さん、市川マップの会に縁故のある方、メンバーなど四十名近くの参加でした。会長や来賓の方のあいさつや、マップのできるまでの経過報告が済み、山梨大学の学生さんの市川大門町の道についての考察を、スライドを中心に発表がありました。談笑後に、フォルクローレのプロ並の演奏があり盛り上がりました。10年ぶりのパート2のマップの完成を、関わりあった方々と祝える喜びが、胸にこみ上げてくる会でした。

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ライオンズ広報誌に「青洲文庫」渡辺青洲の里を紹介
市川大門三珠ライオンズクラブ
                               一瀬  茂
市川大門町は甲府盆地の南端部に位置し、豊かな自然と、歴史に育まれた町です。国・県・町の指定を受けた文化財が43件もあります。千年の歴史を誇る和紙の産地であります。甲斐源氏の祖・源義清が天永年間に甲斐に入った時に紙漉が活発になりました。指導した下臣の甚左衛門は紙漉の術に秀でその徳を慕って、神明宮に祀られています。
 神明宮の祭りの花火大会には現在十万人の観客を動員するまでになりました。天永年間に代官所が置かれ、市川大門の人口は3500人を有したと言われています。
 市川和紙は、武田信玄にも愛用され、徳川家康も市川大門に入った時、市川和紙と出会い御用紙として採用しました。人肌のような紙の仕上がりに「肌吉紙」と言われ、紙漉職人たちを「肌吉衆」として加護しました。(現在、障子紙の生産は、日本一のシェアーを持っています。)
 渡辺家も市川大門の紙問屋「叶屋」として代々徳川家の将軍御納戸御用紙の指定を受け、苗字帯刀を許され、賦役の免除を受けていたそうです。江戸末期に渡辺青洲が「肌吉衆」の一人として活躍しました。御用紙は富士川舟運を経由し納められました。江戸の帰りに親子三代に亘り書籍の収集をしました。(父・寿は江戸の国学者・黒川春村を師と仰ぎ和歌、国学関係を、青洲は漢籍、史書、法帖類を、長男澤次郎は浮世草子草双紙,洒落本を収集した。)
 江戸、浅草広小路の古本を歩いて廻り書籍を買い入れ、収集した書籍は約10万冊に及ぶ壮なコレクションで、日本で最初の個人図書館・土蔵造りの三階建てを屋敷内に建立し、『青洲文庫』として公開されました。黒川春村も長く渡辺家に逗留し、「並山日記」を残しています。
 近代では、「近世日本国民史」の大書を成した徳富蘆花もしばしば『青洲文庫』に訪れていたようです。東京大学の図書館が、関東大震災で全焼の被害に槐あった時、この蔵書が評価され、紀州徳川家の南葵文庫・鴎外文庫・槐南文庫・エリオット文庫・阿川文庫などと伴に、東京大学付属図書館に寄託寄贈されました。一部は図書館の地下の耐火書庫に収納されています。また、図書館内の記念室(現在は自由閲覧室)の入り口には、伊藤博文の書『青洲文庫』が額となり掲げられています。
 渡辺青洲は文教事業にも活躍、明治5年官庁に出願し、「日新館」市川小学校を開校、初代の市川大門村長にもなっています。また、250両を献金し、「桃林橋」いう名の橋を架け、土木事業にも貢献して、大水害の時、青洲提をつくり今に名を残しています。
 明治30年、長男、澤次郎は市川教会を建造し、市川幼稚園をも増設しました。市川大門町の町の佇まいにも歴史の趣きが感じられ、次世代に伝承すべき遺伝子があります。
 市川大門三珠ライオンズクラブも少数ではありますが、偉大な先人たちのDNAを身につけ、誇りとして活動してゆきたいと考えています。
 ライオンズクラブの活動が変革を迎える今、先人たちのように、町を愛し、人を愛してライオンズの旗の下に集いたいと思います。
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梨大生の卒論に市川大門町の水路
 山梨大学工学部土木環境工学科の山本明弘(浜松出身)さんが、卒論に「市川大門町の水路」について取り上げました。

 市川の水路の歴史、水路の使われ方、水路での思い出(遊びなど)、水路の生き物などについて調べています。また、岐阜県にある郡上八幡の水路の利用を調べて、対比や提言をしており市川大門町にとっては、価値のあるレポートとなっています。

 私も五年ほど前に郡上八幡に行きましたが、緑と美しい水があり、歴史ある町並みの小京都のようなところでした。水や郡上踊りをテーマにした博物館があり、町を上げて水路を管理し、愛用されているのがわかりました。所々に地下水を吸い上げている水飲み場があり、「水船」と呼ばれる木製の箱が置かれ、風情がありました。

 山本さんのレポートによりますと、郡上八幡の水路は、主婦の共同の洗い場、防火用水、雪解けの排水、植木等への撒き水、子どもの遊び場などに利用されていること。水利組合により用水ごとに掃除当番があって管理していること。各家庭で使用済みの水は、魚類などの棲息する遊水池や観賞池に流し込み安全を確かめて水路に戻す配慮がされているようです。町の人たちの水に対する大切にしようという思いが伝わってきたと結んでいました。

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浜名湖花博
9月18日に社員旅行で浜名湖花博ヘ行きました。浜名湖に突き出た庄内半島の先端に長さ1.5q幅五百mもある会場で、4月8日から10月11日まで行なわれているしずおか国際園芸博覧会です。残念ながら会場に着く頃に雨が降っていましたので、館内にある観光案内係りに相談すると、館内を走るバス、フローラムーバーも雨のため運休なので、建物の中を見るコースを紹介してくれました。
 最初に山本寛斎がプロデュースした「きらめく未来の庭園」を見ました。高さ13mの円筒型立体庭園で、1mもあろうかと思うサボテンのような花が五つ池に咲き、赤や緑の照明が幻想的な雰囲気をかもし出しています。建物は、杉の皮を張りつけて屋久島の大自然をイメージしていました。
 次に巨大な温室パピリオン「花みどり未来館」に入りました。一億五千万年前からの生き残るジュラシックツリーが展示され、天井に届くような大きな恐竜のティラノザウルスが太古の昔を感じさせています。そこを過ぎると千株を越える見事な胡蝶蘭でうめ尽くされていました。紅色・白の配置で華やかなものになっていました。
次のコーナーは、育種技術紹介でした。表に世界で青に一番近いバラが展示されていて、白地に薄っすらと青味がかったものでした。青のバラを育てることは世界の育種家の夢で、展示されたバラは、世界のコンクールで入賞した品種、静岡県内の育種家によって作られたそうです。この他変わったバラやカトレアやユリなど珍しい花がありました。隣がオオゴマダラ蝶の庭で、百匹はいると思われる蝶が、美しい花々の間をひらひらと飛んでいました。クリーム地に細かな黒い斑点や放物線が無数にある熱帯にいる大型な蝶でした。その次には、温室メロンの栽培が二十株整然と並んでいました。一つの株が3mほどで、縦に吊るされ、土より、50p程のところに10cm程のマスクメロンが紐で補助されています。その他には、植物生産工場で使われているボッティングマシーンやムービングベンチなどが稼働していました。私たちの周りもガーデニングが盛んになっているので、この産業が大きくなっている事を再認識しました。出口にカフェテリアがあり、青バラのソフトクリームがあったので、早速食べてみました。300円で水色、バラの香りがほのかにして、おいしいものでした。
 庭文化創造館は、秋の庭をテーマにして、世界のガーデニングが楽しめます。イギリス、台湾、カンボジアなど、珍しい花やドリアンなどの果物もありました。日本の庭園もあり、苔やススキ、ムラサキシキブ、ききょう、りんどうなど、東屋も配して本格的なものでした。壁は、ネットの袋の中に木材を小さめに切って詰めており、会場内は、木の香りですがすがしくなっていました。隣の館には、月見がテーマになっており、ススキで囲まれた、広い野原のようなスペースで寝そべっている人が何人もいて、サーチライトで作られたお月様を観賞していました。月見酒のコーナーもあり、人だかりがしていました。
 歩き疲れたので、外のベンチに座っていますと、十人ほどのグルーブが、お花の植え替えを手際よくしていました。50代ぐらいの男女で、ボランティアの方のようでした。また、ゴミ運搬車は、電気自動車でゆっくり、動いていました。会場内に運河があり、そこを船が行き来しています。乗ろうと切符売り場に行きましたら、60分待ちとのこと、時間がなく断念しました。水辺の劇場は、つんくWave小室等「フラワー&スマイルコンサート」が行なわれノリノリの歓声があがりにぎやかでした。
 見晴らしの丘に上がりましたが、あまりの広さに全景が見えず、半分ほどの視野でした。全景を見るのならきらめきタワーに上るのがよいとパンフレットにありましたが、一日三回入場券発売時間が決められてあり、定員になり次第発売終了と書いてありました。しかも入館時間は、30分ごとの時間指定ですので、時間にゆとりがあるか、計画を立てていなければ利用できないものでした。
 のんびりとふれあいの庭を見ながら歩いて、ハーブの館・花夢香夢に立ち寄り、ハーブ茶と、苗のラベンダーをお土産に買い花博会場を後にしました。
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おかげさまで創業100周年
代表取締役社長 5代目 一瀬 茂
 平素は、格別のご愛顧を賜り誠にありがとうございます。「おかげさまで創業100年」という節目を迎えることができました。これも一重に、お客様、メーカー様のお陰と社員一同心中より御礼申し上げます。
 初代・善四郎翁(没明治35年)二代目百太郎翁(没大正7年)と続いて、三代目邦作翁(没昭和17年)は山梨県西八代郡役所から「古物商」の登録申請をし、明冶37年8月、認可を得たことをけじめとし、創業年としています。今期100年目を迎えるのであります。その前には、簣屋と呼ばれた時もあり、紙漉職人に紙漉き器・竹簣の製造か修繕をしていたのではないかと、言い伝えられています。二代目百太郎翁は市川一の大酒のみで身上を傾けたと言われたそうです。三代目邦作翁は創業者ということで、本格的に市川特産の和紙販売を始め、障子紙、半紙、糊入、塵紙等を県の中央、中巨摩郡方面を中心に天秤棒を担いで販売を行ったようです。紙を紙のまま売るのでだけではなく、書簡用の巻紙をはじめ、書道の手習い草紙を創り、通い帳、大福帳等の製造、また版木を起こして罫紙を印刷、和帳の製造も行い卸店として活躍する。市川大門町には、三軒の卸店があり、邦作さんは安売りだと評判で、店が繁盛したと、当時店に仕入れにこられた方から教えて戴きました。その頃は、自転車での営業が多く、朝、邦文堂に仕入れにこられる人たちにお茶をだすのが祖母の役割であったそうです。父邦雄は、紙製品販売に文具・事務用品を加え事業を伝承し、戦中の統制時代は郡下で三軒の配給紙の指定取扱所となりました。現在は私の代で、パソコン教室やOA機器中心の事務機器会社となりました。父から言い伝えられているのは、お客様第一主義に徹底すること、メーカー様のご支援を戴き共生する。従業員の生きがい創り。この三点です。時代は超えても、商いの本質は不変と教えられました。一つのことをコツコツと継続して実践する。このことを第一義と考えています。
三代目邦作翁は羊年生まれで、羊にあやかり文化を推進する紙を生業とすること誇りとしていました。現在は、動揺に文化を推進するOA機器・IT関連・情報処理関連が生業です。このことを継続して業とすることは、わが社にとっても大きな誇りであります。
比叡山天台座主 山田恵諦上人のことばに「一隅を照らす。」という言葉があります。「わが身をロウソクにして光をともせ」どんなに小さな光でもその光を守り灯し続ければやがては辺りを照らす光となる。創業100周年は、長く重い歴史と思います。邦文堂の精神の拠りどころであります。今後、この火を灯し続けたいと考えます。
先代の善四郎翁がパソコン教室を見て「がんばりなさい。」と言っているのが聞こえるようです。わが社の歴史を生かし更なる発展をとおもいます。
受け継いだすべての事柄を引き続き、次代に伝承しょうと考えます。

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小さな町の社会教育委員活動
☆市川大門町について

わが町市川大門町は、山梨県の甲府盆地の最南端に位置し、笛吹川と釜無川が合流し、富士川となる所にあります。平成三年、夏の全国高等学校野球大会では、県立市川高校が活躍しました。当時、阿久悠が「ミラクル市川」という題で詩を作ったり、マスコミに「小さな県の小さな町の公立高校」との、フレーズで報道されたので、記憶にある方もあろうかと思います。この快挙は、監督や先生のご努力はもとより、少年野球からシニアなどで、小さい時から野球を愛する少年が多く育っていることが幸いしたと思います。また、市川大門町は、全国的に有名な花火の産地であるため、大会で勝ち進むたび、花火を揚げて町民に知らせ、祝います。もう一つの代表的な産業に千年の伝統を持つ和紙があり、徳川幕府の御用紙ともなりました。江戸時代(1764年)には代官所が置かれ、繁栄しました。町制になったのは、甲府に次ぎ県で二番目でしたが、現在では、過疎指定地域となり、人口は、11,833人となってしまいました。

☆市川大門町の社会教育委員会の内容

 市川大門町の社会教育委員の規定は、昭和39年に改定され、「社会教育に関し、教育長をへて教育委員会に助言するため、@社会教育に関する諸計画を立案し、A会議を開き、教育委員会の諮問に応じ、これに対し意見を述べ、また、B必要な研究調査を行なう。なお、社会教育委員は、教育委員会の会議に出席して、社会教育について意見を述べる事ができる。」と、あります。 この規定により、社会教育委員は、原則的に毎月一回会合を持ち教育委員会からの諮問を検討してきました。他町村では教員を退職した方が多いと聞くなか、当町では、会社経営者やサラリーマン、公民館活動の実践者、PTAの役員、私のような自主団体に所属する者などで、異業種異年齢の、12名で、全員の発言が得やすい構成になっていますので、それぞれの立場で取材して発言しています。

☆市川大門町の社会教育委員の活動

 これまでは、図書館のあり方や、学童保育の立ち上げ方や、学童保育の保護者の活動指導のあり方についてなどの諮問を検討し、教育委員会の施行に反映されています。
 今回の諮問は、「地域の教育力を高めるにはどうしたらよいか。」です。答申期間は、17ヶ月ですから、9ヶ月で問題点を掘り起こし、五ヶ月で解決策を検討。3ヶ月でまとめと、活動スケジュールを決めました。会議毎にテープで録音し、テープおこしをして、次の会合でチェックして行く方法をとっています。話題や提供資料は、前回に決めておいたり、委員が気づいたことを発表しています。異業種・異年齢、地域別の委員構成が功を奏して、話題に事欠かず、知らなかった情報を得る貴重な体験ができます。
 まだ、問題点を掘り起こす段階ですが、
@ 人材バンクの活用―コーディネーターの必要性
A 公民館活動―民俗的なまつりなどの掘り起こし
(子安神社の神楽の復興・一宮神社神輿の復興)
B 小学生の農業体験
(田植えや収穫時だけでなく、スローフード運動をふまえての土作り、種まき、草取り収穫まで定期的なものも)
C 地区公民館である大同公民館で行っている「あいさつ運動」
(敬老会で、この運動についての小学生の作文発表)
D 町をあげてのイベント「神明の花火大会」でのゴミ処理運動(20万人の人出)
E 講演会などのお知らせを地域の放送を使用可能に
F 子供の居場所作り(特に屋外、バスケットゴールの設置など)
G 「開かれた学校」に向けて
H 公民館・自主グループ活動の総会資料集めや取材で見えてくるもの
I 「社会教育委員としての心得」を作成し、委嘱後に勉強会をする
などです。今後は、これらをもとに検討を重ね、答申をだしていきます。
 
☆関連機関との連携について

 この他に、議長と副議長は、町内の中学校の「学校・家庭・地域連携推進協議会」にも参加します。この協議会は、14の委員会などから代表者が集まり、平成五年より、広報研修・環境整備・体験学習と部会が分かれ「きずな」の機関紙発行や、環境整備の花植えボランティア、ほうとうづくりを中学生と一緒にしてきました。
 今年は、山梨県社会教育連絡協議会の総会で、緊急動議された「声かけ、あいさつ運動」を私が紹介し、この会の一年の事業計画に加えられました。また、これが機関紙のテーマにもなりました。この運動は、数年前から中学校でも熱心に取り組んでおり、生徒会で7月の強調週間が予定されており、アンケートも取るので、その結果も機関紙に掲載することになっています。地域の方三名のあいさつの状況についての原稿も掲載予定です。

 市川大門町にある他の活動団体にも機会があれば、この運動を紹介し、町ぐるみの「あいさつ運動」になれば、市川大門町が住み良い、よい町になると思います。
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自主活動団体にアンケートを (市川社会福祉協議会)

 市川社会福祉協議会では、2月に町内の自主活動団体にむけてアンケートを採ったと聞きお話を伺いにおじゃましました。調査依頼団体は、152団体。回答は、108団体と70パーセント以上あったそうです。ボランティア団体23。自主団体85でした。自主団体のうち48がボランティア活動に参加できると答えているようです。総数71団体がボランティア活動ができるとは、市川大門町にとって心強い結果だったと、青柳二三男局長は話されていました。ボランティアのできる団体の種類としては、防災・お年寄りのサポート・子どもの情操教育・町づくり・文化活動・生活関係・スポーツ関係など多岐にわたります。ボランティア活動が、スムーズに、かつ有効、積極的にできるよう社会福祉協議会が主体的にコーディネートしていって下さるようです。また、団体の連絡協議会のようなものを立ち上げて、相互の関係が密接になるよう計画のようです。

 2年前に社会福祉協議会では、市川のボランティア講座の受講生等を募って、長野県の辰野町に視察研修したそうです。地域の人が中心となって活動しているボランティアセンターを訪問して、この施設が町づくりの原動力になっているのに深く感銘されたそうです。財政状況の悪い時代であり、また高齢社会、少子化、深刻な青少年問題、家庭崩壊、地域社会の変革など、難問が尽きない時だけに、行政だけでは町づくりが難しいため、地域の人が、何とか良い方向に向けたいと願う風潮を汲み取り、その思いを育てる方法を模索しているとのことでした。

 私たちの市川マップの会では、小学生を対象に四尾連湖キャンプをしたり、小学校の親子レクより町並みウォッチングの依頼があったり、国際交流協会からの依頼で、マスカティーンの方たちに市川の町を案内したり、渡辺青洲の講演会を開いたりしましたが、依頼の数が少なく、ボランティア活動が活発とは言えません。この企画が、動き出せば、会の活躍の場が広がると思います。これは、単に私たちの会だけではなく、他の団体も待ち望んでいることではないでしょうか。

 2002年から、下部町の文化協会で週休五日制のために、「下部ふれあい勉強会」が、毎週土曜日に行われています。太鼓・手芸・押し花・琴・俳句など生涯に渡った趣味を持てたら、一生の財産になると願がわれたからだそうです。このようなことも自主団体が、公民館や児童館などで先生となり、幼児から高校生までを対象して教室を作れば、子どもの居場所作りにもなり、異年代との交流が図れ、素晴らしいものになると思います。また、さらに地域の人もこれに参加できるようになれば、地域の人が、子どもとの交流もでき、「ふれあいの場」になると思います。

 ボランティア団体が、一堂に集まって多種多様な自分たちの活動披露することにより、グループ同士の交流も活発になり、より連帯を強めて、町づくりの一角を担う機関になりそうです。

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子育て支援       峡南地区地域教育推進会議
 3月16日に峡南地区地域教育推進会議が、南巨摩合同庁舎でありました。この会のメンバーは、南巨摩・西八代郡の教育委員会やPTA・社会教育委員・公民館・子どもクラブ・体育指導などの連絡委員会会長、青少年育成町民会議・カウンセラー。地域活動・子育て支援実践者、高校の生徒指導主事の先生です。会の趣旨は、子育てに関わる問題の深刻化を憂え、家庭、学校、地域の連帯を確かなものにして、子育て支援の組織の見直しと活性化することだそうです。青少年の問題が深刻化しているだけに出席率も良くメンバーの熱意を感じました。総会では、活動報告がされました。

  峡南地域教育推進担当の先生方は、平成11年より、中学生や高校生が、赤ちゃんとのふれあいのできる「あかちゃんだっこ体験」の実施をされ、思春期の女の子男の子に暖かいものが心に残る良い企画をされています。また、「かけはし」という情報誌を毎月発行し、青少年の問題提起をされたり、高校生活などの紹介をしています。2月には、公民館活性化推進事業の一環として、教育関係に関心のある高校生大学生に向けて、「ヤングプレイリーダー養成研修会」を実施し、市川高校生が多数参加し、子どもの「相談相手」「遊び仲間」となってもらうため、マジックやミニゲームを楽しませる方法を学びました。今後、大学生になり地域の公民館や学童保育、児童館で活動をしていただけたら大きな前進になると思います。

  総会後に山梨大学教育人間科学部の栗田真司先生の講演がありました。先生は、「子どもの遊び」「子どもの地域での活動」について研究を進められ、学生の指導に当たっておられます。また、県の関係では、「学びネット」や「キャンバスネットやまなし」の立ち上げなどにも関わっている先生です。「家庭、学校、地域の連帯を確かなものにするために」という題でした。1965年にユネスコの第三回成人教育推進国際委員会で、フランスのラングランが提唱したエディカシオン・ペルマナントを波多野完治が「社会教育の新しい方向」と訳して報告され、社会教育・生涯教育・学習への歴史的な歩みを話された後、地域活動の事例を紹介されました。

  京都の美山町では、人口が半減した際、住民が自主的に立ち上がり、日本一の田舎をづくりを目指して、伝統的建築物条例などを作り茅葺の屋根を奨励した。今では萱葺き屋根が日本で一番多い地域になっているだけでなく、ごく普通の田舎を打ち出したさまざまな地域活動が展開されているそうです。

  東北や長野県などを中心に子どもが少なくなった地域では、公民館を寮としたり里親制度によって、山村留学を実施しています。特別な事はせず普通の生活をすることを条件としてうまく起動されています。今では、この制度で育った人が、その地に住むようになり、人口増加につながっているケースもあります。

  静岡県の掛川市は、日本で初めて生涯学習の町と謳った町だそうです。「とはなにか学舎」を始めて、地域の人が、一つのことにかけて詳しく披露する町おこしが盛んだそうです。

  新潟県村上市は、町屋造りが多いのが有名なところで、青年会議所数人が、町屋商人会をつくり人づくり町づくり始める。人形様めぐり(お雛様)や屏風めぐりを始め、子どもが自慢できる町づくりを目指している話。

  石川県輪島は、輪島塗が下降気味で、短期・長期自然体験村を始めた。子どもだけでなく、見守る親もこの町を訪れるようになり、観光客が少なくなった旅館がこのために潤っているそうです。

  いろんな情報が聞け、聴衆も熱が入った有意義な講演でした。そして市川大門町散歩マップの主旨である、先人が長い間、地域を守り育ててきた足跡を伝えることが、『子どもが市川大門町を誇りに思ってくれる。』ことだと思いました。

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花園院の開山は慈恵大僧正

今月は平塩寺の過去帳が伝えられている花園院さんにお邪魔させて戴きました。

 市川の方から「おきょういん」と呼ばれ親しまれています。屋根が高くなだらかな勾配になっています。本堂へ入る入口が唐破風の屋根がついるのが珍しいものです。正面玄関から東側が本堂やお座敷で、西の方が庫裏となっています。正面玄関の奥は、十畳ほどの座敷で、奥が方丈の間その右が本堂となり、その隣が座敷と奥座敷になっています。奥座敷の出書院の板は厚いケヤキでいい色に磨かれています。ガラスの入った格子戸は、造りなおしたそうですが、趣があり違和感がありません。屋根はカヤ葺でしたのを昭和35年頃にトタンで覆っていましたが、昨年には銅板にされました。宝暦9年(1772)に建てられたそうですので、221年も経っていることになりますが、柱や建具にあまり歪みもなく、部屋に入る風にさわやかな香りがあります。手入れされたお庭にはとても深い井戸があります。平塩の丘の高いところに位置していますが、市川の町並で掘る井戸の水脈と同じ所まで届いていると言われています。

 市川大門町誌によりますと、花園院の開山は、慈恵大僧正(平塩山白雲寺の天台宗の開基)だそうです。中興の祖は菜食賢尊と謂れ、その後市川の生まれの暁善が村松与左衛門等の帰依により、寺宇を天正年間に再建します。貞享3年に現在の地に移りますが、焼失したため宝暦9年(1772)に建てられ現在に至っているそうです。

 現在の伊丹信匡住職は、34代だそうです。暁善住職を初代と数えられているそうです。明治の廃仏毀釈の影響もあり、一時無住の時もありました。その時期は福寿院さんが兼務されていたそうです。真言宗で、本尊はお釈迦様です。4月の8日前後の日曜日に花祭りのお祭りがあり、稚児行列が行われます。

 このお寺は、市川大門町の文化財である平塩山白雲寺の過去帳が保存されているのが有名です。過去帳は巻物で四巻からなっています。第一巻の最初に慈恵大僧正大和尚の名があり、安護院法印清覚、権少僧都平照、當寺文殊丸と続いています。白雲山平塩寺とも呼ばれており、行基の創ったとも謂れています。天台宗の時、「天台百坊」と、謂われてたくさんの支院を持ち、広い地域に勢力を持っていたようです。修業の場であり、学問僧がいてお経本が作られていたようです。夢窓国師は、少年時代、このお寺で修行なさっています。このような由緒あるお寺でありながら、何時、如何なる理由で廃寺になったのか確かでありません。しかし三昧堂、薬師堂は、廃寺になってもあったようです。薬師堂は、天正10年(1601)、甲府太田町一蓮寺へ売られたと記録にあります。その頃の里謡に「妻が欲しくは一条へござれ、一じょやくしはつま薬師」と、古跡の廃するのを歎き諷したそうです。

 過去帳の箱の中に「新霊回向法名帳」が5冊あり、表書きには慶応などの江戸時代の年号や三昧堂の名や薬王寺・金剛院・宝寿院などの当番寺などが書かれています。これは、昔から平塩寺の末寺が毎年九月に会合して、残跡にあった三昧堂において1、7日法事を営み、引声念仏の行事をした記録です。それを見せて戴きますと、近在の有力者がこの年に亡くなった供養にと、お金や米、反物等を寄進した記録が克明に残っており、当時の人々の暮し向きが伺えます。この法名帳はまだたくさんお蔵にあるということです。平塩寺の末寺といわれている市川一五ケ寺(真言宗に改宗)の一つであるこのお寺にこのような書物があるのは、開山したのが、同じ人だったからでしょうか。大きな疑問です。

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徳川幕府の朱印状 薬王寺                 甲斐国三十三番観音霊場第一番札所
甲斐百八霊場第九五番札所


今年の4月より始められた「甲斐西八代七福神めぐり」(真言宗)が評判を呼んでいます。今月は、その一つの三珠町上野にある薬王寺(小野芳幸住職)さんにお邪魔しました。

 芦川駅の南東に位置し、4、5分で行けます。こんもりとした木の右側に石の階段が現われ、坂を登り終えるとりっぱな鐘楼堂があります。それを潜ると2つの切り妻の建物が、L字形につながっている高い屋根の大きなお寺が見えます。左には、大きなケヤキの奥に県の文化財のオハツキイチョウがあります。目通り幹囲3.7mの巨木です。台風で幹が折れる被害にあって、樹勢が衰えてきているのが残念ですが、小さ目の葉がびっしりとついていますので、何年か後には勢いを取り戻すことと思います。
建物は、庫裏と客殿の繋がった所に唐破風の屋根がある正面玄関があります。上がりかまちが奥長で低く籠寄せになっています。その奥がケヤキの板の間で、その隣が対面の間で、庫裏の客間に当たるところです。その左が、寄付。そして土間で、入口になります。対面の間の奥が、方丈の間。その隣が、勝手になります。その奥に、什器などの収納場所や、納戸や浴室などになっています。客殿は、広間とその奥が持仏堂になっています。板間と広間を仕切っている板戸には虎や人物の絵が描かれております。右隣が、次の間で、この欄間は、鳳凰と、しゃちほこが彫られ、極彩色に色づけされています。次の間の奥は上段の間で檀家の方の位牌が安置されています。その右側に一段高くなっている二畳の御座所の間があります。御陽成天皇第八皇子良純親王が、5年間このお寺に居られたなごりの間だそうです。柱は、漆塗りのような艶があり、堅そうな年輪がつまった木です。ケヤキの違い棚も厚いものでできており、格子の障子の細工は、手の込んだもので幾何学模様がきれいです。当代になってから平成八年に萱葺きの屋根を銅葺きに葺き替えたり、御本尊毘沙門天(多聞天)や、不動明王の修復をされているそうです。現在も観音さんを修復に出しているそうです。

 このお寺は、天平18年(746)行基が多聞天像を刻み}り、観全僧都が開山された法相宗で、その後真言宗に改宗したそうです。源義清、武田伊豆守信重の帰依を受け寺領を寄進されたと伝えられています。信玄も他国へ出陣の折、初期の真言七談林の一つとして戦勝祈願を命じています。火災や無住の時もあり、中興の尊澄を一代と数えています。徳川家康が、市川平塩の文殊寺(お屋敷)に陣を張り、薬王寺を見て訪ねて来られた。武田信玄の祈祷場所であった事を知り、敵将でありながら尊敬していた武将であるので、安堵し、葵の御紋の入っていた器を下賜された。翌年にこの寺は徳川家から庇護され朱印状を戴くことになり、江戸時代250年間繁栄されたそうです。僧6名、俗11名、門前に男女41名の時もあったようです。

 現在の建物は、享保4年(1719年)から六年間かけて完成したそうです。現在には無い土蔵や臼屋なども造られたようです。一八世、桓龍僧都の時で、棟梁は、下山の文左ヱ門です。

 本堂と東照宮拝殿、観音堂があったのですが、現在は江戸時代の図面に描かれた図や戦前の面影を描かれた図で偲ぶだけになりました。観音堂は大真寺が廃寺となった為、十二面観音をこちらに納めたお堂で、明治18年に建てられたそうで、その時に寄進した斉木清右ヱ門のお家は、今でも「オカンノンサン」と呼ばれているそうです。

 良純親王は、甲斐の国に17年間流された方で、最後の5年間薬王寺で過ごされたそうです。幾つものお寓話があります。4月の第1日曜日に行われる「お神輿の川渡り」と関係のある方だそうです。表門神社から御崎神社へお神輿が出るので、宮様が、橋の上でご覧になられていた。すると宮様が居られるのを見て、恐れ多いと神輿を担ぐ人々が、川を渡ったのが始まりだそうです。また、宮様が住職と河内の慈眼寺に行かれる途中、落合の高まま地蔵の前を参拝し、高田の愛宕地蔵尊にも参じた。更に黒澤の座り地蔵に参じた時「御苦労であった。後は、黒澤の座り地蔵が案内してくれるから。」と、仰せられた。不思議に思い住職が訊ねると「これまで高まま地蔵と、愛宕地蔵が付いて来て下さった。」と、お袖を動かされると、お姿を見せられたそうです。また、ある時、親王が、縁先にお出になされて「ああ、今三枚橋の上で馬子がこぼした米を雀が啄んでいる。」と仰せられた。早速下僕が、行って見ると雀が群がって米を啄んでいたそうです。皇子の遺品として御位牌、御脇息、御硯、御丁寺風呂(お香入れ)、細焼物御菓子入などお寺に納められています。

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板屋さんは、富士川舟運の問屋


代々受け継がれている家シリーズで初めての町外、鰍沢町の「板屋さん」村松瑞穂さんを訪ねました。

 鰍沢橋のたもとを大木の方角10m進み、右に折れ50mほど行きますと、石の門柱があります。右に大きな二階建てのお蔵があり、左に母屋があります。お蔵の隣の道を進み車を止め、坂を上がっていきますと、母屋の正面に出ます。切妻造りの二階建ての大きなお家で、屋根がお寺のような急な傾斜で、二階部分も覆っています。二階は、裏、左右に窓が取られています。6つの続き部屋がある大きな間取りで、玄関、土間や台所が改装されています。座敷をL字型に囲む廊下は、真新しく見える白いケヤキの板で、少し傾斜に造られています。現在は、サッシの戸になっていますが、以前は雨戸で、ほとんど締めて大切にされていたそうです。奥座敷は、床の間と違い棚が広く取られた十畳間です。床の間のケヤキの板は、厚く広く長くそれは見事なものです。さすが板屋さんだと思いました。左に書院造りの明り取りは、細工の細かなもので、桟が折れずにしっかりしています。柱と梁の交差しているところには、花菱の細工の金具が打たれています。また、四つの襖に「履堂」と署名の入った漢詩が書かれています。奥さんは、「この意味がわかれば楽しいのに。」とおっしゃっていました。このお座敷は、子どもは滅多に入らず、大切にされていたようです。建物は古く、文化文政の頃のものだそうで、お蔵よりまだ富士川側に建てられていたそうです。水害に会い、明治五年に現在の高い所に移築されたようです。屋根は、カヤ葺きであったのをトタンで囲んでいましたが、現在は、瓦葺に見える金属に直したそうです。その際、カヤの表面数pのぞけば、新しいままの色だったそうです。また珍しいものに大黒柱と小黒さんの2本があり、大黒柱30p角と、小黒さん25pのケヤキの太いものです。障子は30本あり、張替えはご主人の係りだそうです。この度の禹の瀬の改修工事で、江戸時代に建てられたお蔵を3mほど上げられそうです。お蔵は、二階建てで大きく、壁もきれいに修復され、屋根も瓦が吹き替えられています。丸に二つ引きの紋が付けられたりっぱなものです。この改修工事前は、竹やぶで舟運時代の面影がある石垣が残っていたそうです。また、舟を繋いでいたという大きな榎の木も15年ほど前まであったようです。道も以前は河原沿いに上ってきたそうで、風景はずいぶん変わってきたようです。

 村松家は、一代目は卯兵衛さん、二代目は宇兵衛さん、三代目は祉祥さん、四代目は真治さん、五代目は良通さん、六代目は当代の瑞穂さんです。黒沢の宿「駿河屋」権次郎さんの分家から始まっています。お座敷の梁の上に槍が二本ありますので、名主だったろうと思われます。三代目の祉祥さんは、大同村の九代目の村長を明治42年にしています。ご主人は、先代より『問屋』をしていたと聞いていますが、板屋の由来は不確かだそうです。舟場のお年寄りに聞いたところでは、「板屋」は木材全般でなく、板になったものを商っていたことから来ているそうです。富士川舟運の問屋をしていたそうで、県内はもちろん、長野の方までの商いだったそうです。大きな商売をされ、さぞや繁盛されていたことでしょう。

 先月より黒沢河岸のことを調べ始めましたが、「富士川黒沢河岸」という題で、今村昭著の本に出会うことができました。この本に村松家のことが出て、「幕末のころ塩商いに関しての古文書に残る黒沢河岸の顔ぶれに、・・・・商人惣代、宇兵衛。」と、記されています。二代目の方は、塩も商っていたようです。

 この本には、河岸のことだけでなく縄文土器や黒澤口留番所、黒沢に係わる歴史も書かれていました。

 黒澤河岸は新川河口の上下にあり、下流は舟場にいたる富士川ぺりにあったと書かれていますので、舟場より板屋さんまでに続く石垣がある部分のようです。黒澤河岸の船は、舳先が黒く塗られていたそうです。

 下りは、富士川河口岩淵まで、御廻米三十二俵積み一艘金二分だったようで、帰りは、大豆、塩、魚類、藍玉、楮、三椏、金物、畳表など持ってきたようです。石和代官所の支配下の貢米を扱っていました。下りは、1日。帰りは4、5日かったようです。船は、「高瀬船」で、長さ13、6m。一つの船を動かす人は、平均4人。船の数の変遷は、1705年53艘、1724年79艘、1881年(明治14年)268艘、中央線開通まで隆盛を極めたようです。

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上・塩屋 黒沢河岸 望月清右ヱ


 
統一選挙終盤で、町長選、町会議員選という、合併前の大事な選挙が始まろうとしています。地域の形が変わろうとしている今、どのような選択がなされるか、一票の重みを感じます。前回の合併で、旧大同村が、住民投票や議論を重ね、昭和31年9月30日に鰍沢町に羽鹿島、舟莚地区、後は市川大門町と決定しました。しかし、昭和33年1月に駅前の一部と舟場区が鰍沢町になり、紛糾した合併が決定したいきさつがあります。今回の合併問題で、再びこの地域が同じ枠組みになろうとしています。この機会に黒沢の河岸が、鰍沢河岸や青柳河岸のように明確になり、後世に伝わればと考えております。

 邦文堂だよりで、代々大切に受け継がれている家シリーズを再開して五回目になります。一回目は魚屋の扇屋さん。二回目は釣具屋の清水釣具屋さん。三回目はお寺の福寿院さん。前回は目薬製造の池川さん。今回は富士川舟運で栄えた塩屋さんをお訪ねしました。4月の20日の日曜日に伺いましたら、山王神社のお祭りの日でした。ご主人が、神社からおり良く帰られ「あいにくの雨で子供たちの楽しみにしているお神輿が繰り出せなく残念だ。」と、話されてました。

 お家は、新川の改修工事を始めるため一段高くに、新しく移築し、総檜の大きな真新しい家でした。新川の改修工事と縁があり、塩屋さんの創業は、現在の黒沢の通りで始められたのですが、度重なる河川の氾濫に会い、高地を求めて現在の場所に移転したそうです。塩屋さんとして受け継がれていた家は、総二階建ての南北に二つに仕切られ東西に三つに仕切られた大きな家だったそうです。廊下は南側と西側にL字型になっており、お風呂やトイレは別棟で、雨の日は、傘を差して行ったそうです。お蔵は、せいろ蔵という、内側が木で蒸篭状に組まれた特別なもので、塩を入れるのに適したものだったそうです。昭和50年頃雨水が沁み、傷んだ為取り壊したそうです。現在は、槍と刀と看板、家紋が入った什器が残っており、ガラスに焼きつけた写真や、長火鉢、枕元に置く細かな細工の行灯、古文書など廃棄してしまい、残念なことをしたと話されていました。看板を見せてもらいましたら「上・塩屋 黒沢河岸 塩問屋 望月清右ヱ門」と浮き文字になっており、長い歴史を感じました。富士川の舟運で、塩や海産物などが運ばれてきましたが、塩屋のご先祖さんの望月清右ヱ門さんは、徳川幕府の鑑札をもらい受け塩の販売をしていたそうです。清右ヱ門さんは、明治の7年に61才で亡くなられたとのことですので、文化年間頃に生まれ、塩の商い一代で財を成したそうです。当時信州まで販路を持っていたようです。帰りは、俵に銭を入れ馬で運んで来たそうで、それを入れるスペースを蔵の中に四角く穴をあけてあったそうです。第二次終戦後の農地解放前までは、ご自宅から鰍沢入り口の駅まで、自分の土地だけを通って行けたというのですから、繁栄を窺い知ることが出来ます。流通で、大きな財が生まれるのですから、黒沢の河岸は、さぞや賑わいがあったことでしょう。黒沢河岸の取り扱いの主な貨物は、石和の役所の貢米を江戸に送ることと、静岡から大豆、塩、魚類、藍玉、楮三椏、金物、畳物などだったようです。黒沢河岸から石和、川田まで廻行する近番船が20艘ほどあったそうです。富士川舟運は、明治36年中央線開通まで、甲州の交通の要地として栄えました。

 清右ヱ門さんの後を、板屋さんより養子に来られた常蔵さんが継がれたそうです。大同村の第五代村長をされています。板屋さんは、現在は鰍沢町になっている所で、鰍沢橋の東側に位置します。お蔵は、江戸時代の古いもので、母屋も切妻の由緒ある風情もつ見事なお宅です。板屋さんとは、桟橋にする板を貸していた為の屋号だそうです。

 黒沢河岸跡は昭和15年に県の史蹟と指定されていますが、もう少し違うところだという説もあります。いずれにせよ舟場、舟莚の地名が残っているのですから、このあたりにあったことでしょう。

 黒沢の河岸の船は、船首が黒塗りして標識としたと町史にありますが、帆先が黒かったことから「おはぐろ」と言われていたとも聞きます。果たしてどちらが正しいのでしょうか。次号も引き続き取材したいと思います。

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池川家は三代に渡り「目薬製造」 


今月の代々受け継がれている家シリーズは、山保の藤田にある池川けさ子さんのお宅におじゃましました。夕方お電話をして伺いましたら、県道に迎えにきてくださいました。藤田は、現在十六軒で、山を背にして南に面して建てられている集落です。四尾連湖線沿いに山繭の里工房があり、黄緑色に輝く山繭の反物が作られ有名になりました。「藤田」は、遠田に通じ、田が遠くにあるという語源の説があります。帯那に土地を持ち、お米を作られているお宅が多いそうです。

 池川家は、百年程前に建てられたお宅です。以前は、古屋敷と言われる四尾連湖線沿いの土地に建てられていましたが、先代のおじいさんの頃、山から大きな石が座敷まで落ちてきて、危険だということで、こちらに越して来たそうです。2階屋の建物で、南側に廊下があり、サッシの戸が付けられています。一階は、五部屋からなり、2階は、養蚕をしたので、広く仕切りのないお部屋となっています。玄関から土間に入りますと、突き当たりが居間になります。左に年代を感じさせられる千本格子戸があります。上がりかまちから座敷に上がると、天井が黒光りして、以前囲炉裏で燻された面影があります。次の座敷の間の帯戸は中央が飾り格子となった比較的新しいものです。その帯戸を開けますと、ご先祖の写真が飾られているお部屋となります。おじいさん、お父さんの夫婦の写真が並びます。写真の下にお亡くなりになった日と享年が書かれています。五衛さんは、明治41年6月10日とあり、85で亡くなられています。角蔵さんは、慶応3年の生まれと書かれています。この家に15、6歳の時に引っ越されてきたそうですので、明治の始めに建てられたものです。この部屋の北側が、奥座敷で、ケヤキの床の間と、書院造りの細かな細工の格子が大切に受け継がれております。床の間の隣の違い戸棚は、お姑さんがこの家は、押入れが無く不便だからと、下半分を襖を入れ、物入れにされてました。左側には、木の帯戸があり、隣は仏間となっております。その隣が居間になっています。炬燵の場所は、以前囲炉裏が切られていたそうです。居間と仏間の間にケヤキの大黒柱があります。黒光りして太くみごとです。梁も幅広く材木を厚めに使用した立派な建物で、百年も経つのに調度の格子戸、帯戸、襖、障子に歪みがありません。

 けさ子さんは帯那からお嫁に来られたそうで、ご主人とは、いとこ同士だそうです。高等小学校卒業後、現在の市川高校の前身である実科女学校に帯那から通われたそうです。小学校の卒業の時にトンネルが開通していたので、女学校へは、帯那峠を越さなくても良かったそうです。2年生になった時には、高等女学校となったそうです。

 池川家は三代に渡り受け継がれてきた目薬の製造をされていたそうです。五衛さん、角蔵さん、ご主人の憲顕さんと受け継がれていましたが、終戦後、廃業されたようです。けさ子さんは、終戦後お嫁に来られたので、造られている姿は見てられないそうです。「主人が十年前に亡くなり、詳しいことは聞いていないのですが。」と、前置きして話してくれました。目薬は、フナが原料で秘方のものと調合されたものだったようです。アサリのような貝に詰め、丁寧に箱に並べて、郵便で依頼された方に送ったようです。ご主人が子供の頃は、学校へ行く前に黒沢の郵便局まで出しに行ったと、話されたそうです。使用法は、一日一回、はがき位の厚さの紙に一つの貝に入っている薬を塗って、足の平に貼って、布で巻きつけておくそうです。目病みの人や、治った人などが遠くから訪ねてきたそうです。日が短い時には、道中を心配され、泊まるように勧めた方もいたそうです

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寛政年間のお蔵のお寺・福寿院


市川の中線6丁目に、夜桜で有名な福寿院があります。建物は、江戸時代の終わりの火災「落合の大火」も潜り抜けた、214年も経つ、土蔵造りの珍しい建物です。 

 梁間11間、桁間6間4尺の平屋造りで、寛政庚戌年1790年31世憲如師が再建したそうです。白壁の美しさは元より、垂木も漆喰で包まれており、雨戸となる引戸も土壁が塗られています。観音開きの立派な戸も東側にあります。7つの部屋があり上段の間、角の間、本堂、書院の間、広間が2つに仕切られています。それぞれの部屋の天井は高く、黒光りする柱や梁に、白い塗り壁が、歴史を感じさせます。

 廊下は、1間のケヤキの板でできておりそれが11間続いている壮観なものです。本堂の奥だけが、ケヤキの板の間で、他の部屋は畳敷き、畳数はすごいものです。床の間や柱は全部ケヤキが使われ見事な建物です。書院造りの格子の細工も緻密で桟がしっかりとしており、ふすまも狂いがなく開け閉めに不自由がありません。

 本堂の柱には、お寺の紋の菊の飾りがついています。市川が火災の多いのを十分配慮した、丁寧に精魂込めて造られたものだと思います。防火に1番注意されており、燃えやすいものは、建物につけないようにしてあったようです。軒下にも火が入らないように漆喰壁でかこってあります。外から入る入り口は、南に4つの戸があけられていますが、軒下が高いので、外付けの階段が必要ですが、簡単なものだったようです。当代のご住職になってからは、不都合なので、階段を付けたそうです。

 福寿院は、1200余年前、平塩の平塩山白雲寺の支院、天台百坊のひとつで、元は、碑林公園の東側のあたりにあったようです。現在地には、貞和2年(1346年)に真言宗法印源秀僧正によって移ったそうです。建設当時は、寺に田地があり、裕福だったようすで、穀物のお倉が、5つもあったそうです。当時の財政の豊かさがうかがえます。しかし戦後の農地開放で、田地がなくなったそうです。特殊なお寺だったのか、檀家の数が少なく、これだけの建物の維持が問題になってきています。修理の状況の判るところでは、大正10年に行われたそうです。このため、関東大震災も無事乗り越えられたそうです。 その後平成3年から4年に、☆本堂内外壁・土蔵の壁と屋根修理事業☆客殿(台所・トイレ・休憩室)新築☆大師堂新築事業☆本堂廊下等格子戸(木製)取り替え事業が行われました。壇信徒の力で、浄財寄進の申し込みが多く集まり見違えるようにきれいになりました。お寺の南側にある大きな桜は、百年もの古木で、見事なしだれ桜です。盛りの何日かライトアップされます。ラジオやテレビで放送されます。バックの白壁のお寺も見え風情のある夜桜見物ができると、多くの皆様から喜ばれるそうです。

 歴史あるお寺ですので、由緒あるものがあります。まず、東山天皇の弟に当たる伏見宮邦永親王直筆の「高学山」「愛宕山大権現」の額2つがあります。大納言の藤原其時卿、その子の基輔卿の立派な細工のお位牌もご本尊の左脇にあります。3人の方は、1700年頃に活躍されているそうです。どのような経過で、このお寺にあるのか、まだ研究課題のようです。寺の紋は、16の菊で、屋根瓦などにも刻まれているそうなので、高貴な方々とのご縁のあるお寺であることは間違いないようです。ご本尊は、厨子に入っている毘沙門天様で、行基作といわれています。また客佛という他のお寺からきたという阿弥陀3尊立像(厨子入り)の立派なものもあります。上段の間に入る梁のところに市川の誇る座光寺南屏の書もあります。

 境内には、正徳5年(1716年)に建てられた地蔵堂(二十三夜堂)があり、漆喰が剥げ落ちてはいますが、土壁の風情あるお堂もあります。鬼瓦の細工が立派です。

 その南側に石の観音像が33体新しく安置されております。広い駐車場もありやはり広い地所もちのお寺様です。

 お寺のお祭りは、「お三夜さん」のお祭りで、旧暦の1月23日今年は、2月23日になるそうです。昔は、市川では、一番早いお祭りで、だるまさんの屋台がたくさん並んだそうです。7月の第2土曜日の夜、祇園さんの日に「ローソク祭り」が行われます。7月のお盆さんで、仏様へお灯明をお供えするお祭りです。

 福寿院のように由緒あるお寺で、かつ歴史の深い建物を持つお寺が、市川にも少しになってきております。現在は、軒下の修理が、急務となっているようです。是非改修され、長く保存されることを願っております。

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創業は安政の魚屋 「扇屋さん」


邦文堂だよりで平成6年より8年まで「市川大門町の代々大切に受け継がれている家シリーズ」を書いていましたが、いろいろな事情で今日まで休んでおりました。町村合併が具体化されつつある時ですので、合併前の市川のたたずまいを再確認するためにも、また再開したいと思います。

 再開第1回目は、中線のほぼ中央に位置します扇屋さんにお邪魔しました。扇屋さんは、お魚屋さんで、最近になりお惣菜や野菜も扱っている活気のあるお店です。

 ご主人にお話を伺いましたら「創業は安政の頃。」と、聞いているそうです。魚の卸業をしていたのですが、ご当代のご主人になってから小売業に転換したそうです。佐渡のカマボコは「 川」静岡の鰹節は「 平 」から取り寄せていたそうです。大奥さまが、「何十貫ものマグロがこもかぶりで届いて、このお店がかつては土間だったので、ここに置いたのよ。」と、当時を思い出して話してくれました。身延線の無い頃は、甲府から運送業の方が大八車で、身延線ができてから、、朝一番と早い電車で荷物が着くため、若い衆が寝泊りしていましたが、先代のご主人と大奥さんでリヤカーで運んできたそうです。

 扇屋さんの建物は昭和五年に建てられた木造の2階建てです。当時は今の売り場は、土間で、その奥の厨房はかつては居間だったようです。北方向の道沿いに白い漆喰の壁や下側がなまこ壁になっている建物があります。市川らしい情緒があり、いい景観です。まだ新しいもので15年ほど前に甲府の職人の普請だそうです。かつて土壁になっていたのを改築したそうです。3部屋になっており東側はいくつもの全面ガラス戸があり、採光がよく暮らしやすく工夫されています。中庭に、150年前ほど造られたというお倉があります。屋根に二つガラスの窓が取られ、お蔵の暗さがありません。半分は吹き抜けになっており、2階はアトリエに使われています。ご主人は油絵をなさり、画歴40年。私が20代の頃甲府の県民会館近くのギャラリーで個展をしているのを見て、「鮭」の素晴らしかったのを覚えています。ほとんど独学だそうですが、三珠町の土屋義郎先生の所に通ったことがあるそうです。「先生は多くを語らない方ですが、絵の本質を教えてくださった。」と話されていました。1階は板の間で、囲炉裏がきられています。その並びに大きなテーブルがあり雰囲気のある椅子が周りに置かれています。テーブルは車長持ちを利用した素敵なもので、長持ちには延宝6年9月吉日(約320年前)と書かれてあったそうです。江戸時代にお輿入れに持ってこられたものかもしれません。

 市川の夏のお祭りの口火を切るのが、金毘羅さんですが、「この金毘羅さんを祭ったのは、扇屋さんだよ。」と、聞いたことがあります。たずねましたらやはりそのとうりで、金毘羅さんは海の神様の縁ということで、四国の金毘羅詣でをしていたほどの熱心な信者だそうです。四国の定宿は桜屋だそうです。市川にある金毘羅さんは、扇屋さんの親戚の持ち山で、急な坂道を登った富士川の見えるところにあります。「あの場所に建てるのはたいへんのことでしょう。」と、たずねましたら、大奥さまが「家の庭で神社の木取りをしたものを、皆で持っていってくれたんですよ。」と話してくれました。当時は、金毘羅講といって多くの信者がいたようです。ご主人が、明治32年甲心講社23名」という幟旗を見せてくれました。「是を持って四国の金毘羅さんに詣でたのでしょう。」と当時の盛況だった様が目に浮かぶりっぱな大きなものです。

 市川の金毘羅堂は、雨漏りがひどく平成12年に、ご主人が建替えされたそうです。天井画はご自身が描かれ牡丹・ハイビスカス・波に鶴・鳳凰の四枚を奉納されたそうです。来年の金毘羅さんは、是非登ってお参りしたいと思います。金毘羅さんのご神体は今は祠ですが、その以前は、その奥にある石だったようだと話されていました。神主さんが、石の近くから寛永通宝を拾ったと話されていたそうです。いつからこの地に金毘羅さんが祭られたのか、知りたいと思いました。 

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